古老の書付

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


七話 駒沢大学駅から自由通りの風景 70年ほど昔

まず右側 駒沢大学駅前交差点から現在の駒澤食堂までの区割りは現在と大差ないけれど、数軒ほどの商店(八百屋・下駄屋・魚屋・飲み屋)と医院や住宅など。
その先は凄くて、①ミニストップ駒沢1丁目店からアジアンビストロのある駒澤自由通りビルまでのニッポンレンタカ-や2棟のマンションを含む一帯が一軒の屋敷で、車寄せまで直接車で入れるすごさで現在アジアンビストロのある建物はお抱え運転手のお住まい、昭和45年ごろには外資系男性化粧品会社のオ-ルドスパイス日本本社になり、お邪魔したことがあるけど上質な昭和初期の洋館ってこんな雰囲気なのかなと思った。
この屋敷のことを子供のころ「シシャク」と呼んでいたがこれは爵位の下から2番目の子爵のことで、「井上」という教育勅語をつくった明治の人と聞いていたので調べてみたらたぶん明治憲法や教育勅語の起案に関与し、法制局長官や文部大臣をつとめた子爵井上毅の流れの方のお住まいだったのかな。
ミニストップあたりの木々はコウモリのすみかになっていて夕方になるとギャ-ギャ-と又、隣の駒沢グランドヒルズ付近は大きな池で繁殖期でしょうか食用ガエルがボ-ボ-鳴いてうるさかった。

 

②その隣現在の駒沢ガ-デンハウスも一軒の屋敷で、①の井上子爵さんよりもっと広大な敷地そして森の中、お名前は思い出せないが(前田?)正門は自由通りの一本西側の道にあり高さ3メートルほどの映画に出てきそうな立派な木製の門があり、そこから邸内に幅4~5メートルはある道が伸び建物は窺うことはできなかったが、当時の航空写真を見ると南面に芝生の庭を配し建物が連なっている。
セブンイレブン前あたりの邸内には桜の古木が並びお花見シ-ズンには宴で賑わっていた。
この屋敷は昭和60年頃まで存在し その後当主がW大学のご出身とのことで、そのご遺志により大学に寄贈され駒沢ガ-デンハウスが建てられたと聞いており、このあたりではコンシェルジュサ-ビス付きの高級賃貸マンションのはしりで当初相当な著名人・芸能人がお住まいだったようで、ロビ-にはグランドピアノが鎮座しているほわーとした雰囲気。
敷地内にはW大関連会社のプレ-トもあります。 母校への思いが凄いですね。

写真1枚目から②邸位置、②邸正門跡、②邸石灯籠(常夜灯)

③少し先に進んで目黒区に入り太陽教育スポ-ツセンタ-あたりからguriotte(パン屋さん)一帯、裏は小さな谷になっていて②宅庭の南端よりの小さな流れがあった。貝島家の屋敷で、こちらも広大な敷地で緑の濃い自然の中にあり背の高い古木が何本も、そして邸内には貝島家専属の庭師宅までもあった。
貝島家は炭鉱王で九州筑豊地方では安川・貝島・麻生が炭鉱3大財閥で、麻生家直系のご子孫とはあの麻生さんですよね。
平成13年発行の町会名簿にも貝島百合子さんのお名前が掲載されており、調べてみたら貝島炭鉱創業者太助→事業を継いだ三男太市→長女百合子の家系ですごいのは百合子さんの母親(太市妻)は日産コンツエルン創始者の鮎川儀介の妹です。
一度お目にかかったことがあるが、あの上品なおばあちゃんがそのような家系の方とは。
もそっとご尊顔を脳裏に刻んでおけばよかった。
いずれにしても大正12年の関東大震災の後、安全な郊外の別荘地的住宅としての需要がこの地域にあったのでしょう。①②③どちらも敷地楽々1000坪以上。
ほかに町内には北海道炭鉱(北炭)の系統の方も現在お住まいと聞いています。 明治から昭和30年代までの石炭産業の変遷がしのばれます。

④そしてパン屋さんの横の現在でも木々が生い茂っている私道を入り坂を下った小川の脇に(現在はあだち内科から駒沢公園に向かう道・当時は道はなく自由通り側からのみ出入りできた)陶芸家井高帰山の窯を備えた工房、帰山窯があった。
昭和前半における高名な陶芸家のおひとりと聞いており当地に大正末には窯を開いていたようで、農家を除く大原町会第一世代として町の形成発展にご苦労された方で当時すでにご高齢と見うけた。
又、帰山先生のご子息即山先生も陶芸家で初期の東根住区住民会議の会長を務められ、東根小学校校長室や東根住区センタ-に掲額されている昭和初期近隣の風景画を残されております。
余談ですが大正10年にこの地にいらした帰山先生は盆暮れに、駒沢の乾物屋粕屋で砂糖を買い求め親しい近隣農家に一斤(約600g)づつ配り、農家は収穫した野菜を返すなど親密な付き合いがあったそうです。
乾物屋の粕屋さんは10年ほど前まで営業してたし、当時は荒物屋とか小間物屋という今はない商店もあった。
そこから先、右手の野原(現在の駒沢公園第一駐車場)を過ぎ交差点を渡ると20件ほどの民家があり、その先は土地の農家新倉家で小字池淵(華屋与兵衛あたり)まで農地とともに緑が続いていて西側には碑文谷呑川駒沢支流が流れていた。
記述のように70年位前の大原町会自由通り右側は広大な敷地の数軒の家と空き地と少数の民家が所在する緑だらけの風景でした。

帰山窯入口

それでは駒澤大学駅前交差点から左側の風景
洋服の青山・マルエツ・ユニクロまでは確か富士木工所か富士自動車名のトラックの木製荷台を製作している工場で、マルエツの花屋さんのあたりが入り口でタイムカ-ドが置いてあり構内には小さな資材運搬用のトロッコが敷設されていた。
そこから民家と空き地が続きセブンイレブンの場所は福井県庁東京宿泊所があり県職員が出張の折利用していたが、特急つばめ号でも東京→京都8時間の時代だから福井までは米原経由で10数時間以上の乗車時間でお疲れ様でした。
その先八百屋さんとお米屋さんがあり場所は少し移動したけど桜井青果店さんです。
それから社宅などありその先はずーっと国立第二病院。
医療センタ-交差点渡ってから確か当時も郵便局はあり農家や民家が続いていましたし、去年まで所在した最高裁長官官舎については記憶ありませんが航空写真には立派なお宅がありますので当時から長官官舎だったのかな。

ミニストップ付近から駒沢大学駅方面を望んだ自由通りの風景

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