筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十六話 大原の地名・地形 明治・大正期~

先日大原の由来についての質問をいただきましたが、即答できませんでした。
おそらく明治時代まではこの台地は駒沢公園含め、畑と残りは原野と少々の田んぼだったのでしょう。
古い文章には東大原並びゴルフ場造成前のこの周辺は、昼間の通行も気持ちの悪いうっそうとした雑木林でであったと。
当時の地図には単純に何もない野原で地図に東大原との記載があるのは昭和になってからで、それが大原に変ったのでしょう、隣の芳窪なる地名は明治期中程の地図にはすでに記載があり、地名としての芳窪は相当古くから所在していたようです。
別の説ではチョットこじつけですが目黒パ-シモンホ-ルあたりを昔小字、原と呼んだがこちらのほうが広いので大原と。
江戸・明治時代から伝わる歴史や文化を感じさせるものはこの地では皆無でしょう。
だからしがらみの少ないサッパリとした地域に育ったと思います。

目黒区は都心に近い方面から発展を始め、都立大学付近までは町並み形成が早かったようですがこの台地までは時間がかかったようで、昔は一定の規模以上の地域にあった寺や神社も都立大まで。
昭和初年発行の碑衾村村誌にも当地のことを、玉電の音が遠くに聞こえる未開の地との記述がある。
この地域の小字には地域の総称が東根だったこともあるのか東大原・東梶屋敷・東池渕・東芳窪・東曽根・東水窪などほとんど東がつく。
目黒区のこちら半分・東京府荏原郡碑衾村(ひぶすまむら)全体から見たら北西なのに。
地形は東に柿の木坂支流・西に駒沢支流と碑文谷呑川が流れその間の台地が大原で基本、水田には適さず畑地と原野だったようです。

この周辺には駒沢村・野沢村・上馬村(上馬引沢村)・下馬村(下馬引沢村)深沢村・奥沢村など沢ばかりの地名で小流のある谷に囲まれた土地だったのでしょう。
70年ほど前でも、医療センタ-と駒沢公園部分を除いても十中の先まで半分くらいは畑と原っぱだったし、隣の芳窪町は畑と空き地だらけで人家は芝道沿い(サミット野沢店裏手あたり)に偏っていた。
畑ばかりの当地だが自由通り沿いの駒沢大学駅から見て右手の世田谷区側は、ずっと田んぼで、駒沢公園内の自由広場あたりまで電通グランドを含み、世田谷の中村家が所有する谷地田や畑が続いたが、田は泥深く収穫量はあまりよくなかったらしい。
現ミニストップ隣は谷頭の湧水池で、自由通り沿いには小さな洗い場もあったそうです。
尚、当時は自由通りはなくあぜ道程度の道とのことです。
昭和25年頃の薄い記憶では病院と公園を除いても町内の30~40%は畑や空き地で、
戦後の食糧難もあり東根公園は全面・医療センタ-の敷地内にも麦畑がありました。
区道もほとんどが未舗装で太陽教育スポ-ツから下っていく区道は途中が畑で途切れていた。
又、碑文谷警察署東が丘駐在所は筆者の知らない古くからあり、小野さんとおっしゃる子供にはとても恐ろしい巡査が勤務されてました。

親に聞いた話ですが昭和27・8年頃は諸条件により違いはあるでしょうが、一坪あたり初任月給程度(10,000円位)でこのあたりの土地が売買されていたようです。今では初任年収ですか。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。