「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧

2023年9月2日

古老の書付け 二十三話

古老の書付け
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


二十三話 区議会議員  70年以上前~

今年4月に目黒区議会選挙があり新人議員も多数当選され、その代わりに古参議員の落選もありメンバ-もだいぶ入れ替わりましたし女性議員も増えました。
戦後20回の区議選があり延べ800人近くの区議さんが誕生している中、大原町会内にお住いの方からの区議さんはただのお一人も誕生していないし、そもそも立候補された方すら記憶にありません。
資料によると最近でも町内の人口は4000人を上回り、まして昭和の時代は家族も多くたくさんの皆様がお住いでした。
戦後第一回の区議選が昭和22年でそれ以来76年間こんな事ってあるのでしょうか。
今回次点と25票差で当選された議員が東が丘2丁目在住との噂もありましたが隣の芳窪町会内の方でした。

以下全くの個人的コメントですが・・・・
地域選出区議会議員がナシと云うのも困るけど、今回も大原町会内の伝統が守られてよかったのかも、区内にはあわせて大小82の町会・自治会がありますがこのような所は珍しいのでは。
数百世帯程度のこじんまりした町会地域でも区議さんは誕生しています。
政治意識は高いけど多分投票率は低そうなご当地の特色そして美点で、区議さんには目も気持ちも向かずそれに関しては控えめの方が多いのでしょうか。
それが大原の伝統的な文化そして風土かもしれません。

でも歴代目黒区長は戦後現青木区長で六人目ですが、そのうちお二人は大原町会にお住いの方でした。
二代目君塚幸吉さんと三代目塚本俊雄さんでお二人併せて32年目黒区の舵取りに尽力されました。
現在もお二人のお子様やお孫さんは町内にお住いです。
この時代まだ区役所は現庁舎に移転前で中央町にあり手狭で暗い感じでした。
旧区役所を記憶の方も今では少数派でしょうか。(2003年移転)
ちなみに衆議院議員は町内に過去お二方お住いでした。

資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

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2023年3月13日

古老の書付け 二十二話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


二十二話 お風呂屋さんと江戸生まれ  70年以上前~

今は風呂のない家庭は町内でもほとんど無いでしょうか。
趣味で銭湯に行かれる方は稀にはおられるでしょうが、小学校低学年の頃はご近所で風呂のある家は何軒もなく、たいがいの家庭はお風呂屋さん(銭湯)を利用していましたし当時我が家にも風呂はなかった。
夏場には洗濯用のたらいにお湯を入れ行水で汗を流した記憶もあります。
電気とガスはこの地域には筆者子供の頃より供給されておりましたが水道は昭和30年過ぎまで未供給で、ご近所の主婦(おばあさん)の風呂の支度が記憶にあるが、屋外の井戸から手押しポンプでガチャンガチャンと樋を通して浴槽に水を入れ、高低差で入らなくなるとバケツに汲みそれを屋内の浴槽まで運び湯舟にあける。
今考えるとバケツ一杯が10リットルとしたって何回この作業を繰り返したのか、そして浴槽の下にあるかまどに薪をくべ湧かすのだから。
おまけにそのおばあさんは薪割りまでしていた大変だったろうな。
祖母曰く「あそこのおじいさんは何もしない人だから」その点我が家はお風呂屋さんに行けばそれで完了。
その銭湯ですが結構混んでいて当時は濾過装置など無く、時間が経つにつれお湯が汚れていったのでお風呂屋さんには夕飯前に。
当時子供の入浴料は子供5円・大人は10円程でご婦人の洗髪は別料金でした。
入り口には左右に男女別に下足入れと入り口があり入ると男湯・女湯の境の一段高い場所に男女の脱衣場を見渡せる番台があり、たいがいの場合おばさんが座っていたがそこで料金を払ったところが脱衣場。
コインロッカ-など無い時代で竹かごに着衣を入れるだけなので、脱衣場の防犯にも気配りしていたのだろう。
洗い場と湯舟はだいたい今のお風呂屋さんと同じ造りで、壁の絵はどこも富士山が描かれていた。

昭和26年頃までは別料金を払い「三助」を呼んで首や肩の揉みほぐしや背中を流してもらうサ-ビスを受けている客もいた。
Wikipediaで調べたら「三助」は江戸時代から続く職業で主に釜焚きや下足番そして前述の流しなどを業務としていた職業で昭和30年頃まではほぼ絶滅したようです。
尚、今時「三助」は差別用語に当たるとか。

湯舟に浸かっているおじいさんが「俺は江戸時代の生まれだ」と自慢してたが計算してみると昭和25年(1950年)の思い出として、その頃江戸時代最後生まれに方は82歳程で、未だ子供の頃は江戸時代生まれが大勢いらしたんだなと人類のバトンタッチみたいな話で変な感じでした。

近隣の銭湯ですが子供の頃は真中(駒澤大学)・野沢二軒・駒沢・上馬・目黒区では八雲と湯めぐりできるほど方々にありましたが、現在は土地柄もあるのでしょうか全くの銭湯空白地帯になっており目黒区と二子玉川までの世田谷区を含め、田園都市線と東横線の間にある銭湯は三軒茶屋と上目黒にあるだけでそこまで行かないとお風呂には入れません。(大人500円)
災害時のためにも一軒あってもよいのでは、でも採算がとれないのでしょうね。

  

資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

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2023年1月26日

古老の書付け 二十一話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


二十一話 東京の真冬日  70年前~

真冬日とは一日の最高気温が0度未満の日のことだそうです。
今朝(1月25日)は寒かったです、天気も良く医療センタ-交差点まで富士山を見に行こうかなと考えましたが寒いのでやめました。
マスコミが云う「10年に一度の寒さ」とか「史上最強の寒波」は大げさにしても。
最低気温が-2.9度で久々の大寒らしさで起床するのに気合いが入りましたが、70年程前はこのくらいが当たり前でもっと寒かったかもしれません。
思い出しても住宅は木枠にガラス一枚のすきま風が入りそうな窓、屋内も障子やふすまで(両方とも基本、木枠に紙を貼っただけの物)断熱効果などほとんど期待できない仕切りで家の中で空気が動いている感じ。
暖房は主にこたつであとは火鉢、寝るときは湯たんぽを使用して勉強するときだけガススト-ブをつけてくれた記憶がある。
朝の通学時の思い出としては道路も未舗装部分が多く、バリバリ霜柱を踏みながら特に東根公園は麦畑で10センチほどの霜柱を踏むのが楽しかったが帰りは溶けてドロンコ。
この寒さは20世紀中は少しずつ緩んではきたがそれなりに続いていた、しかし21世紀に入ってからはどんどんと温暖化。
今から40年前頃までは朝、道路の水溜まりはすぐに凍ったし車のフロントガラスはカチカチに凍りつき溶けるまで走れなかった、通りがかりに見る碑文谷公園や渋谷の松濤鍋島公園の池にも氷がうっすらと張っていた。

それで東京の真冬日ですが大手町の気象庁で観測開始以来明治時代に3日・昭和に1日の計4日だけだそうです。
今日だって朝は冷え込みがきつかったけれど日中は4度まで上がり真冬日にはほど遠かった。
その4日の中の貴重な1日を体験しているのですが全然記憶にありません。
その日は1967年(昭和42年)2月12日で今から56年前、東京の最高気温が-0.2度でした。
その頃は寒さが当たり前でそのため記憶に残らなかったのかもしれませんし、人は暑さより寒さに鈍感かもしれません。
たとえば気温+35度と45度は生きるか死ぬかの大違いですが-35度と45度は「すごく寒いな~」程度の感じ方かもしれません。
奥多摩の山中では現在でも真冬日がありそうですが、大手町では5回目の真冬日はこの先江戸期にあったようなミニ氷河期でもこない限り無いと思います。
軽井沢や飛騨高山の観光地では真冬日が例年同様一定日数起きている様ですが。

資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

 

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2022年11月24日

古老の書付け 二十話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


二十話 大原歳時記(弐) 70年前頃

中秋の名月(十五夜)
だいぶ前の話ですが9月10日は中秋の名月で満月でもありました。
夏が過ぎ空気が澄んで月が一番きれいに見える頃との定義ですが、近年は中秋どころか盛夏と晩夏の中間っての感じでいずれにしても夏。
現在では一ヶ月ほどあとの十三夜がベストでしょうか。
お月見の風習が残っていた低学年の頃、ご近所で数軒のご老人宅ではまだお月見のお供えをしていたし(すすき・だんご・さつまいも等)「子供に団子を盗られると縁起がよい」との話もあり、それを良いことに十五夜にちなんだ15個のお供え団子から2~3個をいただいた。
翌日お年寄りに「おだんご持って行ったの○○ちゃんでしょう」「うん」等とニコニコ顔で会話した記憶があります。
今年は湿気も多く月がぼやけてこんな写真が精一杯で、上を向いて月を撮影していて感じたことは町内の空がずいぶん狭くなったなと、月の出時刻から一定の時間が経たないと月がなかなか見えないし、見上げる空は普段気にならなかったがこんなに電線だらけかと。
現在駒澤大学駅あたりから大原町会方面を見ると駅前ビルの解体で空がすごく広いが、新ビルが建ち上がるまでのチョットの時間の眺めでそれまでのお楽しみ。
70年前の町内はほとんどのお宅が平屋で2階建てのお宅がポチポチ、国立第二病院や小・中学校を含め3階以上の建物はなかったと記憶してます。
日の出から日の入りまで太陽が見えたお宅もいっぱいあった筈、何も感じなかったが当時の空はとても広かったのでしょうね。

11月8日は皆既月食で大勢様がご覧になったと思います。
この日は9月の中秋の名月と比べ天気もよく空気も澄み又、月の上がる場所や角度もよく数時間に及ぶ太陽・地球・月が一直線に並びおまけに天王星までが月に一時間ほど隠れるという惑星食で442年ぶりの天体ショ-でした。
442年前は西暦1580年(天正8年)でこの時の惑星食は土星で肉眼でも見え、記録にも残っているそうです。
この皆既月食時、織田信長は46歳でライバル武田信玄・上杉謙信もこの世には無く、日本の中央部をほぼ制し安土城も完成した絶頂期ですが、2年後には本能寺の変で明智光秀の謀反にあい自害した時代です。
次の皆既月食+惑星食は332年後だそうで私たちの10世代~12世代あとの皆様の時代です。
地球とか日本そして町内はどうなっているんでしょうかね?

資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

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2022年8月7日

古老の書付け 十九話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十九話 大原歳時記(壱) 夏編 70年前頃

プ-ル
何カ所かあったが小学生の頃一番多く通ったのは現駒沢公園の中を歩き深沢の日体大プ-ル(確か25M?)。駒沢通りと呑川の角にあり帰りの深沢不動そばの氷やさんでの氷いちごがサイコ-でした。
他には二子玉川まで玉電に乗って明大プ-ル(50M)当時の二子玉川遊園地の端に隣接しており、現在の楽天グル-プ本社の先あたりだったでしょうか?
地下水だったようでとても冷たかった。
両プ-ルは飛び込み用も兼ねていたので端の部分は水深5~6Mあり、明大プ-ルでは事故も起きていた。
碑文谷の日大プ-ル(50M)も一般開放されていたし、若林には松蔭プ-ルもありここは芋洗い状態でした。
それぞれ入場料は30円?ほどだったか。
親が海などに連れて行ってくれるのはせいぜい夏休みに一回、あとは近所の子供たちと日が暮れるまで遊び回った。
振り返るとあの頃の楽しさは人生一番だったのかもしれません。

星空
70年ほど昔は小学校低学年で昭和26~28年頃。
夜間はまだ街路灯も整備されておらず町全体がとても暗く、家々の明かりも一軒で60Wの電球が一部屋か二部屋ほど漏れてくる程度であとは門灯がポツンポツンと点いていた。
その分夜空は何等星まで見えたのか、後年見たプラネタリウムみたいな星の数で季節によっては星座がいくつも見られた、北斗七星も観察できたが天の川は記憶にはない。
この項を書くにあたり夜空をのぞいてみたら月以外は何もナシで、今このあたりで上向いて見えるのは太陽・月・あとは見えても火星・水星と金星くらいですか。
もしかして真冬の澄んだ夜空には一等星位は見えるかもしれませんが、星座観察は夏休みの研究テ-マにもなりませんね。

デパ-ト・映画館
気温は現在より最高気温で3~4度は低くもちろん熱帯夜とか真夏日・猛暑日なんて言葉もなく、午前中は10時班頃まで比較的涼しく夏休みの宿題もその頃までに。
しかし昔でも夏は夏で多湿な空気は今と変わらず蒸し暑く、主にうちわで凌いでいたし我が家にその頃扇風機はなかった。
喫茶店等にク-ラ-が普及し始めたのは昭和35年(1960年)過ぎだったでしょうか。
その頃まではデパ-トや映画館そして公共交通機関などすべて空調ナシでバスや電車は走行中は風が入りまだましで、最悪は真夏の映画館で汗かきには耐えられる場所ではありませんでした。
昔の映画館内は売り子がせんべいやのしイカを休憩時間に販売に回り、それを食べながらの映画鑑賞だった。
デパ-トにも空調はなかったけど窓からの空気の出入りもありそれなりの暑さで、入り口他数カ所大きな氷柱が設置され涼を感じたが子供中心に皆が触るため、開店時には大きな四角い氷柱が3時頃には丸くやせ細っていた。
確か氷の中心には季節の花が入っていた。

余談ですが社会人になり名店街等に出店している会社(せんべい・あられ)の担当になり月に数回訪問したが、工場では酷暑の中で生産活動をしているので隣の事務所内にも空調は設置しないとの社長の方針で室内はとても暑かった。
なぜか訪問するたび昼食時真夏含め通年、名物の鍋焼きうどんを近所の老舗そば店より出前いただき工場の熱風流れる事務所でご馳走になった。
とにかく暑くて、これは人生一番の強烈な夏の思い出です。

夏の生き物
子供の頃家には家に網戸はなく夏の夜にはテントウ虫・カミキリ虫・カナブン・コガネムシなどよく飛び込んできたし、外では蝉や蝶が何種類かトンボはシオカラトンボ・麦わらトンボ・赤とんぼはもちろん、ギンヤンマやオニヤンマも飛んでいたがこの二種は動きが速く捕らえることはできなかった。
外にはバッタ・クモ・カマキリそしてカエルやヤモリ・カナヘビなども最近まで見かけたが、ここ数年生態系や気候の変化でしょうか姿を見ない。
野鳥も小型の猛禽類含め何種類もいたし自由通りの世田谷区側にはコウモリのねぐらもあり蛇も見かけた。一昨年マンションの植え込みの中から半身を現した蛇(アオダイショウ)に出くわした時はビックリ!
世代交代繰り返しながら生き残っているのですね。
カラスは1964年駒沢公園ができてから木々の生長とともにドンドンと増えました。

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2022年5月12日

古老の書付け 十八話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十八話 テレビジョン 70年前頃から

最近ではメディアの多様化によりほとんどテレビを見ない方も増えているようですが、まだまだテレビは一番の媒体でしょう。
世界では19世紀末には、日本では昭和になってから研究が始まっていたようだが、1953年(昭和28年)に本放送が始まりました。もちろんモノクロ画像でNHK続いて日本テレビが放送を開始しました。
初期の頃は各局が自前の電波塔(高さ100メ-トルほどでNHKは内幸町・日テレは麹町・TBSは赤坂・フジテレビは河田町・テレビ朝日は材木町)を使用していたようだがそれではダメだったようで、1958年港区芝公園に東京タワ-が完成し順次各局がここから放送を開始した。

筆者この真下の中学に通学していたので起工から竣工まで毎日工事の進捗状況を見上げていたが、最初に四隅から出っ張りのような物がポチット出たのが始まりでその鉄骨が上に上にと伸び途中で合体しさらに上に、一年半ほどで完成しました。
333メ-トルと日本一の高さを誇っていたが50年ほど後にスカイツリ-に抜かれた時、東京タワ-への思い入れが強かった分幾ばくかのほろ苦さを感じました。
テレビ塔としての立地・品格・優美さ等、特に夜間はやっぱり東京タワ-が一番ですよ。

記憶では初期のテレビ局はテレビ東京(科学テレビ→12チャンネル)はもちろん、テレビ朝日(日本教育TV)も未だ開局していなかったし、番組も午後の一定時間は休止で一日中の放送ではなかった。
初期の番組としてはジェスチャ-・バス通り裏・てなもんや三度笠・事件記者・三匹の侍・シャボン玉ホリデイ等記憶にある。
カラ-受像器は1964年の東京オリンピック前にはだいぶ普及してきたが、それ以前は東京キ-局合計でも一日に数時間ほどで新聞の番組表にもカラ-放送には【カラ-】との表示があった。
1970年代に入るとすべての放送がカラ-になりました。

小学生の頃は我が家にテレビがなくプロレス・プロ野球等スポ-ツ番組の視聴は、
1.東根の同級生のお宅で(柿の木坂の同級生宅は受像器設置が早かった)
2.松竹の映画スタ-だった角梨枝子さんのお宅で(現東が丘11番館)
3.真中商店街の皆楽亭(ラ-メン店)や村礒さんという餅菓子店で
4.246と環7の上馬交差点の街頭テレビで
テレビが見たくて子供なりに苦労をした記憶がありラ-メン屋さんではもちろんラ-メンを食べることが条件で視聴ができ、当時ラ-メン40円だったが親はかけラ-メン(具ナシで麺だけ)の25円だけしか持たせてくれず、具ナシ麺を食べプロレスを見ていた。
特にお伝えしたいのは街頭テレビで受像器の大きさは小さく14~21インチ程でしたか。
それを群衆と呼べるほどの数で見るのだから、上馬交差点脇に設置された街頭テレビはプロレス中継時人々であふれかえっていた。
戦後の復興期でいくら娯楽が少ない時代にしても小学生から老人まで小さな同じ画面を見つめ熱狂していたのは今考えるとそれがその時代だったのか。
尚、試合は劣勢だった力道山が最後は空手チョップで大逆転必ず勝ちました。
いつものお話で正義?のヒ-ロ-は強かったですね。

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古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

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