「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧
古老の書付け 二十五話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十五話 紅梅キャラメル 70年以上前~
大谷さんそして山本さん夢が叶いましたね。
ワ-ルドシリ-ズ優勝おめでとうございます。
大谷さんは来シ-ズンはピッチャ-としても活躍するだろうし高評価必至でしょう。
移籍一年目でワ-ルドチャンピオンチ-ムで活躍できた大谷さんは実力もすごいけど、とてつもない強運の中で人生を歩んでいけるすごい人と思います。
そして昭和20年代後半子供たちの夢はやはり野球の選手でした、普通の子供たちがプロレスラ-や相撲取り目指す訳にはいきません。
記憶としては小学生高学年の頃ニュ-ヨ-ク・ヤンキ-スが来日し各地で試合があったが日本のプロ野球はまだレベルが低く全く歯が立たなかった。
ところで筆者が子供の頃(昭和26~30年頃)このあたりの子供は「紅梅キャラメル」のカ-ド集めに夢中でした。
確か一箱10円で8粒か10粒キャラメルが入っていたが中身はどうでもよく、おまけの巨人軍の選手カ-ド集めに夢中になっていて水原監督以下別所や川上等ポジション別に一チ-ム10人を揃えるとグロ-ブやバット等の豪華グッズがもらえた。
選手の9人は万遍なく出てくるのだが水原監督が希少でメッタ出てこない、一日おきに真中のお菓子屋さんに行くものだから親には小言云われるしでもがんばりました。
何ヶ月か経って箱の中から水原監督が顔を出したのです。
もう嬉しくって翌日学校から帰るとランドセル放り投げて確か玉電松原停留所そばにあった紅梅キャラメル工場脇の景品交換所まで飛んでいきグロ-ブをゲットしました、このグロ-ブは大谷さんが国内の小学校に贈った物と比べるととても粗末な物でしたがとにかく嬉しくって、小学校3~4年の頃です。
でも紅梅キャラメルはそれから何年も経たず倒産しました。
資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。
古老の書付け 二十四話
古老の書付け
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十四話 松陰神社の焼き鳥屋さん
私の住まいは世田谷区との区境にあり区役所はじめ行政・警察・消防どちらに行くにもバスの乗り換えが必要でましてや目黒区民センタ-など品川区民センタ-ではないかと。小学校通学ももクラスで一番遠い一人でした。
生活面でも駅・金融機関・日常の買い物・かかりつけ医などは子供の頃からほとんど世田谷区で、目黒区の健診はかかりつけ医が世田谷で利用することができませんし、区で5時にならすピンポンも世田谷区発信の音だけ聞こえます。
目黒区防災無線もここまで電波は届きませんし、青パトもメッタ見ることはないのに住民税率は皆様方と同じで不公平だな~
まさに生活圏で云うと80%以上の世田谷区民。
そんなわけで焼き鳥も松陰神社まで自転車でたまに買いに行きます。
ここは値段も味も及第点でバングラディシュ出身の親父が精肉店・カレ-店を兼ね、焼き鳥を寡黙にこだわりをもって真面目に焼いてますよ、大体松陰神社あたりは物価安いらしい。
個人的にはねぎまのタレ焼きと皮の塩焼きが好きで先日も皮が店頭になかったので焼いてもらっていると、後ろから「皮を一本ください」 と幼い声がしたので見ると小学校3年生ほどの女子児童が小さなお財布から百数十円を取り出すところで「皮が好きなの?」 と聞くと「はい、焼き鳥は皮しか食べません」 「そうなの、ではおじさんがご馳走してあげるよ」女児は店横のベンチにちょこんと掛け美味しそうに食べていたので「じゃ-ね」と云うとぺこりと頭を下げ別かれましたが、黒目の澄んだこの子がなんで皮の塩が好きなんだろうかと思いながら帰宅しました。
晩酌しながら思ったことは夕方5時過ぎになんで焼き鳥一人で買いに来たのだろう、しかもそれを店頭で食べてこの子の夕ご飯はまだずっと先なのかな、家族構成はなどいろいろ考えながらのビ-ルはいつもよりチョットだけ苦みが強かった。
良い悪いではなく私たちの地域ではこのような光景はまずないでしょう。
松陰神社とは2キロ程の距離だけど多少街の生活とか文化も違うのかな。
それにしても素直そうなお嬢さんでした、良い人生を送ってくださいね。
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古老の書付け 二十三話
古老の書付け
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十三話 区議会議員 70年以上前~
今年4月に目黒区議会選挙があり新人議員も多数当選され、その代わりに古参議員の落選もありメンバ-もだいぶ入れ替わりましたし女性議員も増えました。
戦後20回の区議選があり延べ800人近くの区議さんが誕生している中、大原町会内にお住いの方からの区議さんはただのお一人も誕生していないし、そもそも立候補された方すら記憶にありません。
資料によると最近でも町内の人口は4000人を上回り、まして昭和の時代は家族も多くたくさんの皆様がお住いでした。
戦後第一回の区議選が昭和22年でそれ以来76年間こんな事ってあるのでしょうか。
今回次点と25票差で当選された議員が東が丘2丁目在住との噂もありましたが隣の芳窪町会内の方でした。
以下全くの個人的コメントですが・・・・
地域選出区議会議員がナシと云うのも困るけど、今回も大原町会内の伝統が守られてよかったのかも、区内にはあわせて大小82の町会・自治会がありますがこのような所は珍しいのでは。
数百世帯程度のこじんまりした町会地域でも区議さんは誕生しています。
政治意識は高いけど多分投票率は低そうなご当地の特色そして美点で、区議さんには目も気持ちも向かずそれに関しては控えめの方が多いのでしょうか。
それが大原の伝統的な文化そして風土かもしれません。
でも歴代目黒区長は戦後現青木区長で六人目ですが、そのうちお二人は大原町会にお住いの方でした。
二代目君塚幸吉さんと三代目塚本俊雄さんでお二人併せて32年目黒区の舵取りに尽力されました。
現在もお二人のお子様やお孫さんは町内にお住いです。
この時代まだ区役所は現庁舎に移転前で中央町にあり手狭で暗い感じでした。
旧区役所を記憶の方も今では少数派でしょうか。(2003年移転)
ちなみに衆議院議員は町内に過去お二方お住いでした。
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古老の書付け 二十二話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十二話 お風呂屋さんと江戸生まれ 70年以上前~
今は風呂のない家庭は町内でもほとんど無いでしょうか。
趣味で銭湯に行かれる方は稀にはおられるでしょうが、小学校低学年の頃はご近所で風呂のある家は何軒もなく、たいがいの家庭はお風呂屋さん(銭湯)を利用していましたし当時我が家にも風呂はなかった。
夏場には洗濯用のたらいにお湯を入れ行水で汗を流した記憶もあります。
電気とガスはこの地域には筆者子供の頃より供給されておりましたが水道は昭和30年過ぎまで未供給で、ご近所の主婦(おばあさん)の風呂の支度が記憶にあるが、屋外の井戸から手押しポンプでガチャンガチャンと樋を通して浴槽に水を入れ、高低差で入らなくなるとバケツに汲みそれを屋内の浴槽まで運び湯舟にあける。
今考えるとバケツ一杯が10リットルとしたって何回この作業を繰り返したのか、そして浴槽の下にあるかまどに薪をくべ湧かすのだから。
おまけにそのおばあさんは薪割りまでしていた大変だったろうな。
祖母曰く「あそこのおじいさんは何もしない人だから」その点我が家はお風呂屋さんに行けばそれで完了。
その銭湯ですが結構混んでいて当時は濾過装置など無く、時間が経つにつれお湯が汚れていったのでお風呂屋さんには夕飯前に。
当時子供の入浴料は子供5円・大人は10円程でご婦人の洗髪は別料金でした。
入り口には左右に男女別に下足入れと入り口があり入ると男湯・女湯の境の一段高い場所に男女の脱衣場を見渡せる番台があり、たいがいの場合おばさんが座っていたがそこで料金を払ったところが脱衣場。
コインロッカ-など無い時代で竹かごに着衣を入れるだけなので、脱衣場の防犯にも気配りしていたのだろう。
洗い場と湯舟はだいたい今のお風呂屋さんと同じ造りで、壁の絵はどこも富士山が描かれていた。
昭和26年頃までは別料金を払い「三助」を呼んで首や肩の揉みほぐしや背中を流してもらうサ-ビスを受けている客もいた。
Wikipediaで調べたら「三助」は江戸時代から続く職業で主に釜焚きや下足番そして前述の流しなどを業務としていた職業で昭和30年頃まではほぼ絶滅したようです。
尚、今時「三助」は差別用語に当たるとか。
湯舟に浸かっているおじいさんが「俺は江戸時代の生まれだ」と自慢してたが計算してみると昭和25年(1950年)の思い出として、その頃江戸時代最後生まれに方は82歳程で、未だ子供の頃は江戸時代生まれが大勢いらしたんだなと人類のバトンタッチみたいな話で変な感じでした。
近隣の銭湯ですが子供の頃は真中(駒澤大学)・野沢二軒・駒沢・上馬・目黒区では八雲と湯めぐりできるほど方々にありましたが、現在は土地柄もあるのでしょうか全くの銭湯空白地帯になっており目黒区と二子玉川までの世田谷区を含め、田園都市線と東横線の間にある銭湯は三軒茶屋と上目黒にあるだけでそこまで行かないとお風呂には入れません。(大人500円)
災害時のためにも一軒あってもよいのでは、でも採算がとれないのでしょうね。
資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。
古老の書付け 二十一話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十一話 東京の真冬日 70年前~
真冬日とは一日の最高気温が0度未満の日のことだそうです。
今朝(1月25日)は寒かったです、天気も良く医療センタ-交差点まで富士山を見に行こうかなと考えましたが寒いのでやめました。
マスコミが云う「10年に一度の寒さ」とか「史上最強の寒波」は大げさにしても。
最低気温が-2.9度で久々の大寒らしさで起床するのに気合いが入りましたが、70年程前はこのくらいが当たり前でもっと寒かったかもしれません。
思い出しても住宅は木枠にガラス一枚のすきま風が入りそうな窓、屋内も障子やふすまで(両方とも基本、木枠に紙を貼っただけの物)断熱効果などほとんど期待できない仕切りで家の中で空気が動いている感じ。
暖房は主にこたつであとは火鉢、寝るときは湯たんぽを使用して勉強するときだけガススト-ブをつけてくれた記憶がある。
朝の通学時の思い出としては道路も未舗装部分が多く、バリバリ霜柱を踏みながら特に東根公園は麦畑で10センチほどの霜柱を踏むのが楽しかったが帰りは溶けてドロンコ。
この寒さは20世紀中は少しずつ緩んではきたがそれなりに続いていた、しかし21世紀に入ってからはどんどんと温暖化。
今から40年前頃までは朝、道路の水溜まりはすぐに凍ったし車のフロントガラスはカチカチに凍りつき溶けるまで走れなかった、通りがかりに見る碑文谷公園や渋谷の松濤鍋島公園の池にも氷がうっすらと張っていた。
それで東京の真冬日ですが大手町の気象庁で観測開始以来明治時代に3日・昭和に1日の計4日だけだそうです。
今日だって朝は冷え込みがきつかったけれど日中は4度まで上がり真冬日にはほど遠かった。
その4日の中の貴重な1日を体験しているのですが全然記憶にありません。
その日は1967年(昭和42年)2月12日で今から56年前、東京の最高気温が-0.2度でした。
その頃は寒さが当たり前でそのため記憶に残らなかったのかもしれませんし、人は暑さより寒さに鈍感かもしれません。
たとえば気温+35度と45度は生きるか死ぬかの大違いですが-35度と45度は「すごく寒いな~」程度の感じ方かもしれません。
奥多摩の山中では現在でも真冬日がありそうですが、大手町では5回目の真冬日はこの先江戸期にあったようなミニ氷河期でもこない限り無いと思います。
軽井沢や飛騨高山の観光地では真冬日が例年同様一定日数起きている様ですが。
資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。
古老の書付け 二十話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
二十話 大原歳時記(弐) 70年前頃
中秋の名月(十五夜)
だいぶ前の話ですが9月10日は中秋の名月で満月でもありました。
夏が過ぎ空気が澄んで月が一番きれいに見える頃との定義ですが、近年は中秋どころか盛夏と晩夏の中間っての感じでいずれにしても夏。
現在では一ヶ月ほどあとの十三夜がベストでしょうか。
お月見の風習が残っていた低学年の頃、ご近所で数軒のご老人宅ではまだお月見のお供えをしていたし(すすき・だんご・さつまいも等)「子供に団子を盗られると縁起がよい」との話もあり、それを良いことに十五夜にちなんだ15個のお供え団子から2~3個をいただいた。
翌日お年寄りに「おだんご持って行ったの○○ちゃんでしょう」「うん」等とニコニコ顔で会話した記憶があります。
今年は湿気も多く月がぼやけてこんな写真が精一杯で、上を向いて月を撮影していて感じたことは町内の空がずいぶん狭くなったなと、月の出時刻から一定の時間が経たないと月がなかなか見えないし、見上げる空は普段気にならなかったがこんなに電線だらけかと。
現在駒澤大学駅あたりから大原町会方面を見ると駅前ビルの解体で空がすごく広いが、新ビルが建ち上がるまでのチョットの時間の眺めでそれまでのお楽しみ。
70年前の町内はほとんどのお宅が平屋で2階建てのお宅がポチポチ、国立第二病院や小・中学校を含め3階以上の建物はなかったと記憶してます。
日の出から日の入りまで太陽が見えたお宅もいっぱいあった筈、何も感じなかったが当時の空はとても広かったのでしょうね。
11月8日は皆既月食で大勢様がご覧になったと思います。
この日は9月の中秋の名月と比べ天気もよく空気も澄み又、月の上がる場所や角度もよく数時間に及ぶ太陽・地球・月が一直線に並びおまけに天王星までが月に一時間ほど隠れるという惑星食で442年ぶりの天体ショ-でした。
442年前は西暦1580年(天正8年)でこの時の惑星食は土星で肉眼でも見え、記録にも残っているそうです。
この皆既月食時、織田信長は46歳でライバル武田信玄・上杉謙信もこの世には無く、日本の中央部をほぼ制し安土城も完成した絶頂期ですが、2年後には本能寺の変で明智光秀の謀反にあい自害した時代です。
次の皆既月食+惑星食は332年後だそうで私たちの10世代~12世代あとの皆様の時代です。
地球とか日本そして町内はどうなっているんでしょうかね?
資料は先人の残したものやネットから、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。