筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十七話 国立東京第二病院 73年前頃から

大原町会の中で日々を過ごす気持ちの良さはは町内が安定した地盤上にある、そして家々も密ではないなどと環境面の安心感もありますが、それにもまして駒沢オリンピック公園と東京医療センタ-が所在する、さらに十中と東根小も町内に含むこともあるのでしょうか。
地震等原因で大火災が起きたとき火災がおさまるまで待つのが避難場所。
避難場所は駒沢オリンピック公園
災害で家屋の倒壊・火災などにより自宅での生活が困難な時に利用するのが避難所。
避難所は東根小学校と第十中学校
最近では倒壊や火災に遭わず自宅で生活が可能なときは、避難所を利用せず自宅でとの在宅避難が推奨されております。
そのためにも軽い傷の治療用品やお薬そして最低4~5日分の水と食料など、各ご家庭でのそれぞれご準備お奨めします。
そして災害拠点病院の東京医療センタ-、普段はお世話になっておりますが災害時は災害拠点病院に指定されており、治療は命を考慮した「助けられる命は全員助ける」選択になります。(トリア-ジ)

大原の中央、小字東梶屋敷あたりに海軍軍医大学校として1884年(明治17年)に設立され、その後1945年(昭和20年)に国立東京第二病院、1998年(平成10年)に国立病院機構東京医療センタ-と名称を変更しながら発展し現在では高度総合医療施設として又、災害時の拠点病院として地域医療の核になっています。
都内の陸軍・海軍の病院としては新宿区戸山に旧国立東京第一病院の東京国際医療研究センタ-(陸軍)、世田谷区大蔵に小児医療の国立成育医療研究センタ-(陸軍)、中央区築地に国立がん研究センタ-(海軍)等があるようです。
当敷地内には国立病院機構本部や東京医療保健大学も所在し、子供の頃第一病院の先生は東京大学医学部、第二病院の先生は慶応大学医学部と聞かされてましたが、現在もその流れは続いているようです。

国立東京第二病院で受診経験お持ちの方もだんだん少なくなりますね。
戦後の施設としては知っている限りでは現在の建物は三代目、最初の記憶の外来棟(二階建て)は自由通り「駒沢公園東口」から入って左側にあり入院棟は渡り廊下で結ばれた敷地内に点在しており、一番北側には結核専用病棟もありグランドや畑もあった時代で病棟は旧海軍病院そのままって感じ。
二代目はだいぶ南寄りに建築され多分1964年東京オリンピック前後だったと記憶していますが。
そしてもっと南に寄り現在の三代目が。
自身それぞれの時期に入院経験がありますが順調に回復しました、昔から名医がそろったレベルの高い医療施設と思います。

昭和35年頃までは戦争で負傷された傷病兵の方々も敷地内で生活しておられ、白衣に松葉杖や眼帯姿で玉電真中から電車に乗り渋谷ハチ公前などでアコ-デオンやハ-モニカを演奏してました、今で云うと投げ銭を得ていたのでしょう。
又、自由通りに面した公園駐車場の中に傷病兵のための義肢工場があり、型を取るためでしょうか石膏の手や足が並んでいたが昭和25年頃だったでしょうか、火災を起し炎と黒煙がすごかったのをが記憶にあります。
世の中何でもアリの時代だけれど戦争だけはご勘弁を願います。

東根小学校のすぐ脇には小型のプ-ルがありよどんだ水が入っており小道を隔てた場所に小屋があり子供たちは解剖室と呼んでいた。
噂ではプ-ルの中はホルマリン液で解剖した物体が漂っているとのことでしたが、筆者は怖くて近づけなかったがこれは下校時に近道である病院内を通過させないよう、父兄や学校が流した話かもしれません。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。