筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十八話 テレビジョン 70年前頃から

最近ではメディアの多様化によりほとんどテレビを見ない方も増えているようですが、まだまだテレビは一番の媒体でしょう。
世界では19世紀末には、日本では昭和になってから研究が始まっていたようだが、1953年(昭和28年)に本放送が始まりました。もちろんモノクロ画像でNHK続いて日本テレビが放送を開始しました。
初期の頃は各局が自前の電波塔(高さ100メ-トルほどでNHKは内幸町・日テレは麹町・TBSは赤坂・フジテレビは河田町・テレビ朝日は材木町)を使用していたようだがそれではダメだったようで、1958年港区芝公園に東京タワ-が完成し順次各局がここから放送を開始した。

筆者この真下の中学に通学していたので起工から竣工まで毎日工事の進捗状況を見上げていたが、最初に四隅から出っ張りのような物がポチット出たのが始まりでその鉄骨が上に上にと伸び途中で合体しさらに上に、一年半ほどで完成しました。
333メ-トルと日本一の高さを誇っていたが50年ほど後にスカイツリ-に抜かれた時、東京タワ-への思い入れが強かった分幾ばくかのほろ苦さを感じました。
テレビ塔としての立地・品格・優美さ等、特に夜間はやっぱり東京タワ-が一番ですよ。

記憶では初期のテレビ局はテレビ東京(科学テレビ→12チャンネル)はもちろん、テレビ朝日(日本教育TV)も未だ開局していなかったし、番組も午後の一定時間は休止で一日中の放送ではなかった。
初期の番組としてはジェスチャ-・バス通り裏・てなもんや三度笠・事件記者・三匹の侍・シャボン玉ホリデイ等記憶にある。
カラ-受像器は1964年の東京オリンピック前にはだいぶ普及してきたが、それ以前は東京キ-局合計でも一日に数時間ほどで新聞の番組表にもカラ-放送には【カラ-】との表示があった。
1970年代に入るとすべての放送がカラ-になりました。

小学生の頃は我が家にテレビがなくプロレス・プロ野球等スポ-ツ番組の視聴は、
1.東根の同級生のお宅で(柿の木坂の同級生宅は受像器設置が早かった)
2.松竹の映画スタ-だった角梨枝子さんのお宅で(現東が丘11番館)
3.真中商店街の皆楽亭(ラ-メン店)や村礒さんという餅菓子店で
4.246と環7の上馬交差点の街頭テレビで
テレビが見たくて子供なりに苦労をした記憶がありラ-メン屋さんではもちろんラ-メンを食べることが条件で視聴ができ、当時ラ-メン40円だったが親はかけラ-メン(具ナシで麺だけ)の25円だけしか持たせてくれず、具ナシ麺を食べプロレスを見ていた。
特にお伝えしたいのは街頭テレビで受像器の大きさは小さく14~21インチ程でしたか。
それを群衆と呼べるほどの数で見るのだから、上馬交差点脇に設置された街頭テレビはプロレス中継時人々であふれかえっていた。
戦後の復興期でいくら娯楽が少ない時代にしても小学生から老人まで小さな同じ画面を見つめ熱狂していたのは今考えるとそれがその時代だったのか。
尚、試合は劣勢だった力道山が最後は空手チョップで大逆転必ず勝ちました。
いつものお話で正義?のヒ-ロ-は強かったですね。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。