筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


八話 大原町会歴史と環境など  昔~今

資料では今から100年前(大正10年)大原町会内一帯は何軒かの農家と近年この地に移住してきた10軒に満たない民家があるに過ぎない原野の中に畑と少しの水田があった地域のようでその後、東大原・東梶屋敷・東池淵・東前原などの小字を集め大原町となったようです。
この時代に大流行したのがスペイン風邪、日本では第3波まであり国民全体の4割近くが罹患し35万人が死亡したそうです。
江戸時代のコレラなど5月に長崎出島に上陸し8月にはもうには江戸で流行っていたそうで、航空機も車もない時代なのに早いですね。スペイン風邪にしろコレラにしても収束までは3年ほどかかったようで、コロナも最短でも来年までは自粛と辛抱が続くのでしょうね。
横道にそれましたがこれより20年ほど前(明治後半)には大原と隣の芳窪(東が丘1)あわせて12軒の農家があったに過ぎなかったとか。
今では東が丘2・八雲5とかいって、程度の良い住宅地との評価を世間様からいただいているけれど。
大正12年の関東大震災の経験から安全な郊外を求めポツポツと軒数が増えて、昭和3年には町内の住環境改善を主目的として東大原会が設立され、昭和8年には大原町会と改組し昭和20年の終戦まで続いたが中断、その後復活し今年で66年目・通算90年近い歴史を持つ町会です。
玉電真中停留場から町内に入るには自由通り前身は、セブンイレブンあたりまでは田のあぜ道程度の泥濘地で通行には全く不適で、絵図のように東側の道より町内に入るのがル-トだったようだがその道も外(街)灯がなく夜間は真っ暗、雨天時など膝まで没するぬかるみに難渋し、それならば通行環境改善のため碑衾町役場から補助を受け不足分は皆で拠金し、外灯をつけ砂利を敷こうとの互助の精神が始まりで、昭和3年の東大原会の設立につながりました。
昭和初期、先人の皆様方のご苦労がが思い浮かばれます。


左)砂利敷き絵図 玉川線(246)に面して旧駒沢小跡地、跡地左下が現在のユニクロ周辺、表記されているうち何軒かの家は現住している
右)趣意書

*東大原会設立時の会員数38軒
会費 月に一口10銭(一口以上) 明細は10口負担が17軒・5口負担が15軒その他となっている。
因みに当時の物価  コ-ヒ-・そば 10銭  ビ-ル大瓶40銭
町会費は昔が高いのかそれとも今が安いのかな?
当地に電燈が引けたのは大正12年だそうで・戸数の少ない地域のため消極的な 電燈会社に私財までを投じ運動をし、工事まで手伝った方もいらしたとのことで先人の皆様には頭が下がります。
町内の環境は皆様のおかげもあり都内でもほどほどの住宅地として好環境を保ち、道路一つ考えてみても広く、これは明治の昔に太郎兵衛さんという方を先頭に農家の皆さんが道幅二間半(4メ-トル50)以上を主張し用地も寄付されたからだそうです。
ありがたいことで道路が未熟の土地には良好な住宅地は育ちませんよね。
又、町内の多くが台地上にあり駒沢公園の15%程度を町内に含み、しっかりした住宅が多く都内5000以上の町・丁目の中でも安心な街の一つでしょう。
参考までに東京都震災危険度総合ランクは八雲5丁目・東が丘2丁目ともランク1です。
町内でいままで地震や風水害の大きな被害は聞いてないけど安心はダメでしょうね。
60年以上前(昭和34年)の伊勢湾台風は中部地方を通過したのに、夜間の強風で恐怖を感じ眠れなかった。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。


左)町内入り口の寄付・押し売り謝絶標柱 盗難予防警報装置ありとの表記もある
中)梶屋敷(現・医療センタ-方面か)風景
右)村社氷川神社の神主さんとお歴々(ご子孫の方おられますか)