筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


九話 子供達の遊び場 ゴルフ場跡と大学周辺 ずっと昔~

駒沢公園は明治のころまでは駒沢村字狸谷(まみがや)の地でせいぜい茅場として利用されるぐらいの雑草だらけの土地、地名からしてタヌキやキツネなどいたのか。

品川用水も246の北側から上馬で環七方面に流れていたため水田・畑には不向きの土地柄だったのでしょう。

この地に東京ゴルフ俱楽部駒澤コ-スが開場したのが1914年(大正3年)で敷地は現在の駒沢公園全域。

オ-プン当初は6ホ-ルで徐々に増設していったようで入り口は駒沢公園通りの公園西口あたり、クラブハウスは現在の幼児用自転車練習場あたりだったようで昭和天皇もプレ-されたそうです。

 

しかし筆者の記憶にあるゴルフ場跡は戦争で荒れ果て所々草むらのある全くの赤土の荒野で、後年都立公園として整備された砧ゴルフ場や野川のICUゴルフ場跡などは各ホ-ル形状がある程度分かるが、当時の駒沢は全くゴルフ場を思い起こせる物はなく何面かの草野球場等が点在し草むらの上空にはヒバリが舞っていて、春一番の吹く頃は南風に乗り赤土が舞い上がりそれが大原町内に、空は真っ黄色で家の中までザラザラ。

これは戦中・戦後に食糧増産のため近隣農家に委託してグリ-ンを農地化したが、その後農地としては不適とされ耕作放棄されたためですか。

周辺はその昔は谷筋で湿地もあったのか、たとえば公園内のジャブジャブ池あたりには沼があり、もしかしてコ-スのウオーターハザ-ドだったのかも知れない。

地形には高低差もあり映画撮影など行われていて、記憶にあるのは総天然色・シネマスコ-プ(こんな言葉死語ですね)と銘打って大ヒットした「明治天皇と日露戦争」の旅順203高地攻略戦での撮影、乃木大将役の俳優が「突撃!」と指揮棒を振り上げていた。      

お隣がゴルフ場オ-プンと同時期に神田から移転した駒澤大学で当時は曹洞宗大学。昭和20年代後半ごろの記憶では、文学部と仏教学部主体の学生数の少ないこじんまりした大学で、お寺の子弟でしょうかくりくり坊主頭の学生をよく見かけた。

大学図書館の耕雲館は歴史的建造物で、電通八星苑編で前述したフランク・ロイド・ライト風の建物(設計者は日本人)。                       

正門横の榎本自転車店の貸自転車を一台だけ借り、大学グランドで近所の子供達全員で練習し全員短時間でマスタ-できたが、自転車返却時に軽くひと言注意をされた。

大原町内には空き地もあったが遊びはほとんどこの地域、子供の遊び場には最適であったのか柿の木坂や衾(現八雲)の東根小児童も下記1~4にはよく遠征してきた。

当時は中学受験した生徒も五・六年生にちょっと塾に行く程度でよく遊んでいた。

1.ゴルフ場跡では野球中心に夕方までなんでも遊べた

2.電通八星苑脇の田んぼ跡で泥穴に肘まで手を入れザリガニとり

3.当時の駒沢通り・自由通りは穴だらけで、駒澤大学屋上(写真でロの字型の本館)でのロ-ラ-スケ-ト(守衛さんによく怒られた)

4.駒大正門横にある三菱重工の巨大社宅マンション、当時は広大な一軒家(空家?)がありなぜか垣根の隙間から誰でも入れた。庭に100坪はあるひょうたん池と呼んでいた池がありそこでの魚釣り

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