筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十一話 当時の東根小学校と4町通学区域 70年~65年ほど昔

昭和25年開校当時の校舎は国立第二病院内の倉庫(旧海軍療品庫)ということですが、先人の話では一階が軍馬の厩舎だったという話もあり、東根小学校ホ-ムペ-ジにちらっと姿が見られる黒褐色のそれは古びた二階建ての建物で、階段は東と西そして外部に一か所、中央が廊下で、左右に教室が連なり職員室は入り口から左手前の部屋だった。
校舎内は暗く常時廊下は点灯されており、冬はとても寒くたしか教室に石炭スト-ブがあったと思うが隙間風がひどく おかげで理科の「空気の対流」の実験はとてもよく理解できた。
この校舎には 三年生まで過ごし、四年生から(昭和28年度)からは完成した第一校舎に移りとてもうれしかった。
校庭は低学年のころは小石だらけの荒れた土のグランドで体育館もプ-ルもない時代。面積は現在より広かったのだろうがなにせ高学年の頃には団塊の世代が続々と入学を始め、おそらく千数百名の全校児童数で校庭はとても狭く感じた。
卒業アルバム見ると一学級65人以上学年三学級で200人、高学年になると身体が皆大きくなり教室はキツキツで通路も狭かった。密だったな~


このクラス写真に今井会長が写っています、探してみてください。(答えは次回、十二話にて)

校長は初代喜多村先生・2代中野先生の時代で戦後の復興期の入り口で新任の先生には詰め襟の学生服姿も見られた時代。
初代の喜多村校長先生は渋谷区立大向小学校校長に転任され、クラスの子何人かでお邪魔した記憶があり東根より立派な学校だなと子供心に。
大向小学校の跡地には後年東急百貨店本店が開店しました。

通学範囲は今と同じで大原・柿の木坂・衾・芳窪の4町からが基本で区域外からも大勢いたが、全体の30%以上は柿の木坂からの児童だった。(今もそうなのかな?)
当時駒沢通り南側部分の柿の木坂・衾等々は都立大駅に近く、しかも戦前に東急系でしょうかデイベロッパーが入り造り上げた街のようで整然とした高級感のある街並みでした。
同級生の中にはテニスコ-トを備えた家や自家用車保有の家の子もいた。
それに比べ駒沢通りから北側は畑や空き地が多く、人家のまばらな地域も多くあり中には交通がとても不便そうなところもあった。
柿の木坂・衾町は社長や重役、大原町は会社員・公務員そして医療関係者、芳窪町は農家・職人さんや様々なお仕事の方が多いなとのイメ-ジで、子供心にもなにほどかの地域差を感じそれは最寄り駅(東横線都立大学と玉電真中)や町の生立ちに関係もあるのかな~なんて考えていたことも。
確か駅名は都立大学駅は都立高校駅で学芸大学駅は第一師範駅でした。

尚、入学時のランドセル購入場所は父親と一緒に行った渋谷道玄坂の露天商、当時ずらっと並ぶ露店のカ-バイドランプ(アセチレン)の匂いが今のおまつりの雰囲気だった。
そのランドセルは丈夫で卒業まで使用できました。
今と同じで柿の木坂・衾(ふすま・現八雲の大部分)の文化通り以南に住む子供は八雲小学校に通学していた。
年に一度4町対抗野球大会が学校主催?であり6年生の時1回戦は芳窪に勝利したが、決勝で柿の木坂にサヨナラ負けしたのが悔しくて!

*東根小学校開校の前は八雲小学校の分校だったが現在の東根小学校は地域の発展も あり目黒区有数の小学校に成長しました。

 

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。