筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十二話 玉川電車(玉電)と真中停留場 其ノ壱  70年前~

皆様の中で玉電に乗車経験のある方はどのくらいおられるのでしょうか。
1907年(M40)開業1969年(S44)の廃線なので今から52年前、長く当地にお住まいの方でも玉電をご存じの方おおよそ60歳以上ですね。
そして新玉川線として開通したのが1977年(S52)、その間代替バス輸送で専用レ-ンができ特急やノンストップを含む多数のバス路線ができてはいたが、道路混雑がひどい時代で渋谷まで時間帯によっては40~50分はかかったと記憶している。
その後田園都市線と呼称が変わったが新玉川線開通が待ち遠しい年月でした。
その玉電ですがなにせ都電と同じ路面電車、車と道路共用なのでそれ以前も時間がかかり東横線を利用する地域の方がうらやましかった。
でも小学生のころ午後から雨になった日など、会社勤めの父親を真中の停留場まで迎えに行かされたが大体想定された時間に帰ってきた。
父親のきまじめさもあるけど運行もそれなりにされていたようだ。
ちなみに筆者の子供のころは車も少なく渋谷までの246の信号は三軒茶屋と上通り2か所だけ、大橋はどうだったかな。
三軒茶屋・下高井戸間は専用軌道でそのまま残り今はおしゃれな車両が走ってますね。
又、二子玉川・砧間を砧線が走っていて確か途中2・3駅(吉沢・中耕地・?・砧)ほどでコヤマドライビングスクール先、駒澤大学玉川キャンパスそばの河原脇が終点砧駅で、砂利採取跡の沼で鮒が釣れた。
玉電は明治末に多摩川の砂利採取・運搬を目的に敷設されたそうで、変遷はあったようだが筆者の子供の頃の停留場は渋谷・上通り・大坂上?・大橋・池尻・三宿・三軒茶屋・中里・上馬・真中(まなか)・駒沢・新町・桜新町・用賀・瀬田・二子玉川で駒沢から少し先は246の新道はなく、今の旧道を走っておりその中で屋根のある少しだけ駅っぽいのは渋谷を除き中里・駒沢・用賀?ぐらいで、他は道路の中央にコンクリ-トで島を作ったような乗客にはとても危険な乗降場所だった。(真中停留場の写真参照)
新町駅などその安全地帯もなく乗客は道ばたで待ち、電車がくると車の流れを横切って乗降していた。
下高井戸方面行の今の世田谷線は簡単であるが駅があり駅名も昔の儘で、三軒茶屋でポイント交換して渋谷からの電車の3本に1本ほどは下高井戸行に向い、行き先プレ-トは二子玉川行きが白地・下高井戸行きが赤地。基本は路面電車だが渋谷~上通り間他、数か所専用軌道の部分もありました。
渋谷駅は山手線・東横線・井の頭線と同じ2階で地下鉄は3階。
運賃は曖昧な記憶だが10円か15円で往復できたような気がするし、三軒茶屋乗り換えで下高井戸まで同一切符で行けた。(都電も同じような仕組で乗り換えあり)
筆者1956年(昭和31年)中学入学時、山手線渋谷→浜松町間大人運賃が10円で(現在は200円)、渋谷東急文化会館(現渋谷ヒカリエ)が開業しニュ-ス専門上映館(東急ジャ-ナル)が有りここも10円で当時の10円って存在感ありました。
玉電の車両は写真と同じで廃止前何年かは不二家のペコちゃん型のちょっとかわいいのも走っていて、後年は2両連結が多く乗車は前・後ろの2か所で乗降を車掌さんが確認すると2回紐を引く、運転席でチンチンと2回鳴り発車する、手動人間には懐かしい音だな。 車庫は大橋で現在の首都高大橋ジャンクション・天空庭園のあるところ。 町内の住人が皆利用した不便な真中停留場、でも今では「渋谷ハチ公に集合!」って号令かかったら、大原の住人が目黒区民の中でも何番目かにハチ公の足つかめますよ。
なにせ渋谷までの乗車時間6分、いろいろあったようだが駒沢や上馬でなく駒澤大学駅が真中にできてよかった。

*この連載にたびたび記述の【駒澤】とは246と駒沢公園通りの交差点。
【真中】とは246と自由通りの交差する駒澤大学駅前交差点のことです。
*玉電真中停留場は現在の駒沢大学駅で路面電車の玉電や都電の駅は停留場(所)と呼んだ。
246(玉川通り)は厚木街道のことで昔は大山道と呼び、三軒茶屋や用賀に道しるべがあったが今はどうなんでしょうか?
大山道は江戸庶民に大人気の大山詣でに使われた道。

資料は先人の残したものやネットから。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

前回十一話の集合写真の答え、最前列右から4人目が今井会長です。