筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十四話 碑文谷呑川駒沢支流とそのまた支流 70年ほど昔

四話で柿の木坂支流のことを書いてみましたがここは駒沢支流。
大原の台地の西側を流れ八雲2丁目で深沢からの本流に合流します。
書くにあたってネットで暗渠化された時期など考証しましたが、暗渠や支流に関するハンタ-そしてブロガ-の皆様が大勢おられるのにびっくり。
でも駒沢支流・柿の木坂支流の上流部分についてはハンタ-の皆様も迷子になっているようです。
目に見える暗渠部分については正解ですが昭和25、6年ごろのその先についてを少々。
下流からさかのぼり緑道部分は自由通りまでで、40年以上前に暗渠化されました。
そこから深沢ハウスと華屋与兵衛の間の道~軟式野球場~駒沢通り~陸上競技場中央部~電通グランド外野の際(八星苑)~駒澤大学裏~蜂の家本社工場裏~246を渡り少し行ったところに風呂屋がありその排水も流れてきていた。
その先記憶がないがすぐ品川用水に突き当たるので、その昔は用水から多少の落水でもあったのでしょうか。
水質は柿の木坂支流と同じで褒められたものではなかった。
246から入ったところ、サナイ(眞井)マンション脇に行き止まりの道があるがこれが流れの跡で、たぶんマンションは土地の地主眞井家経営の「長寿庵?」名の旅館だったと思う。
この付近の川筋を写真でど-ぞ。

特に書きたいのは駒沢支流にそのまた支流があったこと、これは七話の②邸南端よりの湧水で今の駒沢ガ-デンハウス自由通り際からの流れで川幅50センチほどでほぼあだち内科脇の区道の位置を流れ、階段のある駒沢公園入口「東が丘2丁目15番地口」あたりで駒沢支流に流れ込んでいた。
ここに入るには自由通りにある木戸を開け(セブンイレブン向かいあたり)あぜ道のような流れの土手を歩いたが、流量は少ないがきれいで小魚(クチボソ?メダカ?)もいた。
流れの右側の電通グランドに面した部分は、旧水田でザリガニなども多く他地域の子供たちがあまり入り込まない秘密基地だった。
その昔はその先ミニストップ横にあった矢頭池も湧水だったそうでこれも水源だったかもしれない。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。