「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧

2021年5月25日

古老の書付け  五話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


五話 幻の東京オリンピック 85年前~
1940年(昭和15年)の東京オリンピックは招致が決定していたのに、返上するハメになった幻のオリンピックです。
せっかくの機会でしたが当時の国際情勢の緊迫、そして国家指導部が国内外に下手を打ったのでしょうか。
当初神宮外苑競技場を改修しメインスタジアムとし開催予定のところが、体制の一部が難色を示したため広大な土地が広がるご当地、東京府荏原郡の旧駒沢ゴルフ場跡地に白羽の矢が立ったのでしょう。
ここに十万人規模収容のメインスタジアム・一万人収容の水泳競技上等施設群を建設し、1940年9月下旬~10月場下旬の予定で第12回オリンピックの開催が予定されました。
選手村の建設予定地も計画ではゴルフ場内。
広大な府有地で(深沢ハウスまで含む)都心から15キロほどと近く、交通手段は地下鉄銀座線の延伸も計画にあったようです。
その場合最寄り駅はやはり駒沢大学駅近辺だったのでしょうし、自由道りや駒沢通りは今の2~3倍の広い道路に。
今でも自由通りなどには拡幅のための規制(都市計画道路)が当時よりかかったままですが、事業化の話はこの先何十年とないでしょうね。
イメ-ジしてください。この東京オリンピックが開催の場合1964年の東京大会は当然ないので、2020東京大会は1940のメイン会場を取り壊しその時、ピカピカのスタジアムが神宮外苑ではなく医療センタ-前にそびえたっていたかもしれない。
町が違う街になっていたでしょうね、今とどちらが良かったかな。

 

1940年頃の航空写真に当時は無かった自由通りと駒沢通りを書き足すことによってゴルフ場の広さ位置関係が判ります。

町内に30年ほど前までお住まいだったご婦人で1936年第11回オリンピックベルリン大会に水泳の飛込競技に出場され、晩年はスイミングスク-ルで高齢者向けの水泳指導をされていた方がおられた。
日本選手団が整列しドイツの総統アドルフ・ヒトラー閣下と握手をしたそうです。
でもご婦人曰く「あのヒトラ-は影武者・ニセモノだったわよ」とのことです。

あと60日 2020東京五輪・パラリンピックは?

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

 

1940年オリンピックのポスターと五輪旗の準備風景

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2021年5月1日

古老の書付け  四話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

四話 碑文谷呑川柿の木坂支流 70年~65年ほど昔

大原町会の地形は東西を呑川支流の谷に挟まれた大原の台地上に所在します。
まずは東側の柿の木坂支流の記憶。
40年少し前に暗渠化され目黒区部分からは緑道になっているが、それ以前は目黒世田谷境のユニクロ通り(東が丘1-36、地図②)で世田谷区側の暗渠(直径50センチくらいの土管)がいきなり開渠になり川となって、東が丘1・柿の木坂3・2・1と東根地区を流れ都立大学駅付近で駒沢支流を合流してきた深沢本流と一緒になり緑が丘~蒲田~羽田へと。
その呑川ですが上流の東が丘1あたりでは幅2メートル深さ1メートルちょっとほどだったかな、流れは底の部分にせいぜい15センチほどで土手になっており子供には飛び越すことはできなかった。

水流・水質は? 暗渠から流量はチョロチョロでもなくザ-ザ-でもなくほどほどで薄茶色の多少どぶ臭のある水で、上質な流れではなかったのはこの川に水源や上流はなく川の起点は生活排水が主なのだったかもしれない。
強いて探せば上馬交差点脇の宗円寺さんあたりに多少の水源はあったのかな。(地図①付近)
その先付近を品川用水が流れていたが、すでに用水としての役割を終えた溜まり水程度のドブ川で、用水の落水が呑川の水源ではないと思う。
ただ、ひどい大雨の時には下流の柿の木坂方面で何度かの浸水がおきた。
流れの中は生物の生息にはほど遠い環境で魚影など見かけたこともなく、いたとしてもザリガニ程度だったか。
土手にはタンポポ・ツクシなどが自然のまま生えていて滑りやすく、小学校低学年の観察の授業で川に落ちた子もいた。

*ちょうど川の始まるユニクロ通り際に相田?会田?さん名の製粉工場があり通年むぎ焦がしの匂いが漂っていた。
*東根地区とは昔のこの地域における総称(大字)ですが、そもそも東に向け台地が谷に下っている斜面を指す言葉が【東根】だそうです。
*品川用水 武蔵境で農業用水として玉川上水からの分流し世田谷・目黒から品川区まで、当地では駒沢から上馬~野沢~品川用水の流れていた上馬(246と環七の交差点)の橋を旭橋といいます。
昭和20年代半ばには役わりを終え埋め立てられたが、当時上馬~野沢竜雲寺間は用水沿いにびっしりと商店が並び、ところどころに橋が架けられ「野沢銀座商店街」と称しとても賑わっていた。戦後まもなくは賑わいのある商店街には本家もビックリの銀座がついていて、こちら方面では「戸越銀座商店街」が有名。現在も「野沢銀座」やその2・3先に「水車橋」と名残のバス停名があります。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

 

昭和22年頃の航空写真と現在の地図との比較です、1上馬の宗円寺付近が源流? 2開渠は一番奥のポール付近から 3緑道石碑

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2021年4月11日

古老の書付け 号外

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

号外 電通八星苑 70年前~
大原町会に隣接する電通のグランドをご存じですか?(世田谷区駒沢1)
(株)電通グル-プが保有する電通八星苑で駒沢公園や駒澤大学にも隣接しております。
最近この施設を業績がらみの資産見直しで、不動産業者(相手会社名非公開)に売却した模様です。
今後大規模な開発が行われることと思いますが、本体に対し周辺道路が狭く当地にも工事期間中、完成後も多大な影響が出ると考えます。
今後の進捗状況は説明会等含め判明した情報が入り次第皆様にお知らせいたします。

その八星苑ですがこのあたりには珍しいある意味歴史的な建物を含む広大な施設で、近代建築の三大巨匠の一人あの帝国ホテル旧本館に携わったフランク・ロイド・ライトの手による邸宅が現存しており、その建物を含む8,000坪以上の敷地に広大な運動施設や園芸農園も併設されており、正門は自由通りの一本西側の道路突き当たり。
ライトの作品は「20世紀建築作品群世界遺産」に4邸が登録されており、その方の作品がご近所にあるとはとはすごいですね。
邸は1917年(大正6年)建築で、当時の帝国ホテル支配人林愛作氏の依頼により自邸として建築されたそうです。
施設はここ5年以上使用されていない様子でいずれはと思っていましたが、再開発されるとこの建物も消えてしまうのでしょうね。
一時は駒沢大学へとの噂もありましたね、駅からも近く余計なことだけど200億は軽くオ-バ-でしょう。
子供のころセミ取りに入ってよく追い出されあまり好印象は残っていないけれど。
施設は公開されておらず外からの写真ですがライトの作品をどうぞ。

又、駒沢公園通りには三越俱楽部名の三越百貨店厚生施設があり、陸上競技用トラックなど設備されていたが、1970年代には三越エレガンス・三越迎賓館シルバ-ハウスに変わり、現在は駒沢大学深沢キャンパスになっています。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

   

 

昭和22年頃の航空写真と現在の地図との比較です。

右側が東が丘2-14、左側が電通グラウンド(大正末年頃の写真と思われます)

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2021年4月4日

古老の書付け 三話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

三話 富士山の絶景 70年~65年ほど昔
ビルやマンションからは今でも眺望できる富士山、でも地上から富士山が見える場所はメッタないでしょう。それが東京医療センタ-交差点から見える富士山。
こんな風景持ってる町会は都内にあまりないはず。
70年ほど昔の冬は今より気温がずっと低く、交差点から見る富士山は今と違って銀杏並木も左右のマンションそして中央の歩道橋・道路標識など周りに遮る物もなく、丹沢山塊の上に今の何割も大きな雄大で凛とした雪山の姿を現していた。
駒沢通りは医療センタ-交差点から先は今の半分以下の道幅の道路で、歩道橋手前のゴルフ場跡(荒野?)の中を碑文谷呑川駒沢支流が横切っていて、この川がほぼ目黒・世田谷を分けていた。
交差点の先は舗装は施されてなかったと記憶している。
近年TV・新聞で駒沢公園でのニュ-スが出るたび〈世田谷区の駒沢公園〉と出るが、ご承知のようにメインスタジアムの中央を昔駒沢支流が流れここが区境で、目黒区の縄張りも多いのに〈世田谷区の駒沢公園〉とはあまり気分がよろしくない。

おまけの富士山絶景
246の大坂上から大橋に下る目黒川に向けての坂、玉電の一番前に乗車していると、前方やや右手に大きな富士山がぽっかりと浮かんでいるように望見できた。
子供のころは景色なんて興味なっかたけどここだけは印象に残っていて、玉電に乗るときはいつも先頭に乗車していた。
ここは坂を下る手前右手に中将蕩の工場があり薬草のにおいが濃く漂っていた。
(株)ツムラのことで中将蕩(湯)は本来婦人薬だそうで、それが入浴剤のバスクリンにつながっているらしい。
今でも薬草をふんだんに使用してるのかな、それならヘタな温泉より効果ありそうだけど。

ついでに温泉について一言
みんな大好きな温泉、割合はわからないけれど各地の温泉で循環濾過・加温・加水している宿は多い。
源泉の温度が高く加水して適温にする、あるいは温度が低く多少加温する等はまだしも、主流は源泉の湯量不足を補い且つ湯質保持ため、消毒用塩素を投入し循環し同時に濾過して湯質を保ち、中には源泉はもちろん温泉の給湯配管もなくタンクロ-リ-で源泉から運搬し貯湯、それを循環ろ過・加温・加水している宿もあると聞く。
少ない湯量でのかけ流しでは泉質を維持できないのはよくわかりますが。
ましてやポンプを使わず自噴泉でかけ流しなんて夢のまた夢、めったにない貴重で稀少な温泉です。
以前お邪魔した箱根の温泉など内湯は井戸水・露天風呂は温泉と正直な表示があったのに、3~4年後再訪したら内湯も温泉の表示がされていた。 いったい何なのだろ!
筆者のかけ流し温泉の見分け方は単純に湯舟から湯があふれ出ているのが本物、吐出口から一定量の湯が浴槽に注ぎ込まれているのにちっともあふれないのは循環濾過。
温泉宿って景色・温泉・部屋・食事が4本柱だからそれほどこだわることもないんだけど。
脱線ついでに、世田谷区含む城南地域や川崎・横浜でも深くボ-リングすれば低温の温泉が出るようですが、その場合はコ-ラ色の湯が多いみたいですね。

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昭和22年頃の航空写真と現在の地図です、赤丸の位置が「東京医療センター前」交差点です。

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2021年3月20日

古老の書付け 二話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

二話 お産婆(おさんば)さん 80年~60年ほど前

芝道(福田通り・今のユニクロ通り)に伊倉助産院の看板を掲げた戦前からの助産婦さんがいらした。
当時はたいがい自宅にお産婆さんに来てもらいお産をしたようで妹二人を含めお世話になり、下の妹の時など祖母があわただしく湯を沸かしていたことなどかすかな記憶の中にあります。
近所の子供も伊倉さんにお世話になった子供も多かったのだろう。
その伊倉助産婦さんですが後年道で会うたびに「あら!○○ちゃんずいぶん大きくなったわね」と大学生になってからも声をかけられ多少の恥ずかしさと、同じくらいの感謝でビミョーな気持だった。
なにせ母親より先に私の顔見てるんだから。
でも近頃はほとんどが病院で、自宅出産など皆無で看取りもほとんど聞きませんね。

*芝道・福田通り・ユニクロ通りとは(時代とともに呼び方も変わります)
246より一本南側の道で駒沢で246から斜めに分岐し自由通りに出、ユニクロの脇を目黒(大原町会)・世田谷境を通り野沢方面から水車橋そして駒沢通り方面に。
古書によると近郊農家が野菜を東京市内に販売のため明治~昭和初期には港区芝方面にはこの道をよく使っていたようで芝の増上寺に関係する道。
親福田(67代 赳夫)子福田(91代 康夫)と二人の内閣総理大臣を輩出した、福田家のお住まいがある名所になってもおかしくない福田通り。
けどこれに関するTV番組など見たことないし今はユニクロ通りって云うのかな。

福田さん親子も知名度はアメリカのブッシュ親子にはかなわないですよね。
親福田さんが総理就任時は話題になった明治維新から100年をちょっと過ぎたあたりだったでしょうか。狭い道なので門前が人と車で窮屈そうでした。
今から3年前にはもう明治150年が過ぎました。時の移ろいとは・・・・ですね。

注 戦前とは昭和20年(1945年)の終戦以前を指します。
資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

 

昭和22年頃の航空写真です、赤丸の位置が芝道沿い伊倉助産院があった所です、今ではすっかり変わっています。

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2021年2月14日

古老の書付け 一話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

一話 古河屋(こがや) 70年位前

東京医療センタ-交差点から深沢方面に20メ-トルばかりいった右側、現在の大刈込の中に古河屋という酒屋があり町内中心に御用聞きにも回っていた。

古河屋の看板からたぶん茨城県古河市の出身の方だったのでしょうか。

ゴルフ場で遊んだ後(住民は駒沢公園のことを当時ゴルフ場と呼んでいた)子供たちは「井戸使わせてください」と店の横にある井戸で泥んこになった手足を洗い水を飲んだが、夏場はとても冷たく気持ちよかった。

尚、古河屋さんの縁者の方は現在も当地にお住まいです。

やはり町内を回っていた上馬の豆腐屋さんは上総屋だったので千葉県出身の方かな。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

昭和5年頃、現在の駒沢公園周辺地図です、当町会とゴルフ場、厚木街道(246)との位置関係が見て取れます。

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