2021年7月25日

古老の書付け  八話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


八話 大原町会歴史と環境など  昔~今

資料では今から100年前(大正10年)大原町会内一帯は何軒かの農家と近年この地に移住してきた10軒に満たない民家があるに過ぎない原野の中に畑と少しの水田があった地域のようでその後、東大原・東梶屋敷・東池淵・東前原などの小字を集め大原町となったようです。
この時代に大流行したのがスペイン風邪、日本では第3波まであり国民全体の4割近くが罹患し35万人が死亡したそうです。
江戸時代のコレラなど5月に長崎出島に上陸し8月にはもうには江戸で流行っていたそうで、航空機も車もない時代なのに早いですね。スペイン風邪にしろコレラにしても収束までは3年ほどかかったようで、コロナも最短でも来年までは自粛と辛抱が続くのでしょうね。
横道にそれましたがこれより20年ほど前(明治後半)には大原と隣の芳窪(東が丘1)あわせて12軒の農家があったに過ぎなかったとか。
今では東が丘2・八雲5とかいって、程度の良い住宅地との評価を世間様からいただいているけれど。
大正12年の関東大震災の経験から安全な郊外を求めポツポツと軒数が増えて、昭和3年には町内の住環境改善を主目的として東大原会が設立され、昭和8年には大原町会と改組し昭和20年の終戦まで続いたが中断、その後復活し今年で66年目・通算90年近い歴史を持つ町会です。
玉電真中停留場から町内に入るには自由通り前身は、セブンイレブンあたりまでは田のあぜ道程度の泥濘地で通行には全く不適で、絵図のように東側の道より町内に入るのがル-トだったようだがその道も外(街)灯がなく夜間は真っ暗、雨天時など膝まで没するぬかるみに難渋し、それならば通行環境改善のため碑衾町役場から補助を受け不足分は皆で拠金し、外灯をつけ砂利を敷こうとの互助の精神が始まりで、昭和3年の東大原会の設立につながりました。
昭和初期、先人の皆様方のご苦労がが思い浮かばれます。


左)砂利敷き絵図 玉川線(246)に面して旧駒沢小跡地、跡地左下が現在のユニクロ周辺、表記されているうち何軒かの家は現住している
右)趣意書

*東大原会設立時の会員数38軒
会費 月に一口10銭(一口以上) 明細は10口負担が17軒・5口負担が15軒その他となっている。
因みに当時の物価  コ-ヒ-・そば 10銭  ビ-ル大瓶40銭
町会費は昔が高いのかそれとも今が安いのかな?
当地に電燈が引けたのは大正12年だそうで・戸数の少ない地域のため消極的な 電燈会社に私財までを投じ運動をし、工事まで手伝った方もいらしたとのことで先人の皆様には頭が下がります。
町内の環境は皆様のおかげもあり都内でもほどほどの住宅地として好環境を保ち、道路一つ考えてみても広く、これは明治の昔に太郎兵衛さんという方を先頭に農家の皆さんが道幅二間半(4メ-トル50)以上を主張し用地も寄付されたからだそうです。
ありがたいことで道路が未熟の土地には良好な住宅地は育ちませんよね。
又、町内の多くが台地上にあり駒沢公園の15%程度を町内に含み、しっかりした住宅が多く都内5000以上の町・丁目の中でも安心な街の一つでしょう。
参考までに東京都震災危険度総合ランクは八雲5丁目・東が丘2丁目ともランク1です。
町内でいままで地震や風水害の大きな被害は聞いてないけど安心はダメでしょうね。
60年以上前(昭和34年)の伊勢湾台風は中部地方を通過したのに、夜間の強風で恐怖を感じ眠れなかった。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。


左)町内入り口の寄付・押し売り謝絶標柱 盗難予防警報装置ありとの表記もある
中)梶屋敷(現・医療センタ-方面か)風景
右)村社氷川神社の神主さんとお歴々(ご子孫の方おられますか)

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2021年7月5日

古老の書付け  七話

古老の書付

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


七話 駒沢大学駅から自由通りの風景 70年ほど昔

まず右側 駒沢大学駅前交差点から現在の駒澤食堂までの区割りは現在と大差ないけれど、数軒ほどの商店(八百屋・下駄屋・魚屋・飲み屋)と医院や住宅など。
その先は凄くて、①ミニストップ駒沢1丁目店からアジアンビストロのある駒澤自由通りビルまでのニッポンレンタカ-や2棟のマンションを含む一帯が一軒の屋敷で、車寄せまで直接車で入れるすごさで現在アジアンビストロのある建物はお抱え運転手のお住まい、昭和45年ごろには外資系男性化粧品会社のオ-ルドスパイス日本本社になり、お邪魔したことがあるけど上質な昭和初期の洋館ってこんな雰囲気なのかなと思った。
この屋敷のことを子供のころ「シシャク」と呼んでいたがこれは爵位の下から2番目の子爵のことで、「井上」という教育勅語をつくった明治の人と聞いていたので調べてみたらたぶん明治憲法や教育勅語の起案に関与し、法制局長官や文部大臣をつとめた子爵井上毅の流れの方のお住まいだったのかな。
ミニストップあたりの木々はコウモリのすみかになっていて夕方になるとギャ-ギャ-と又、隣の駒沢グランドヒルズ付近は大きな池で繁殖期でしょうか食用ガエルがボ-ボ-鳴いてうるさかった。

 

②その隣現在の駒沢ガ-デンハウスも一軒の屋敷で、①の井上子爵さんよりもっと広大な敷地そして森の中、お名前は思い出せないが(前田?)正門は自由通りの一本西側の道にあり高さ3メートルほどの映画に出てきそうな立派な木製の門があり、そこから邸内に幅4~5メートルはある道が伸び建物は窺うことはできなかったが、当時の航空写真を見ると南面に芝生の庭を配し建物が連なっている。
セブンイレブン前あたりの邸内には桜の古木が並びお花見シ-ズンには宴で賑わっていた。
この屋敷は昭和60年頃まで存在し その後当主がW大学のご出身とのことで、そのご遺志により大学に寄贈され駒沢ガ-デンハウスが建てられたと聞いており、このあたりではコンシェルジュサ-ビス付きの高級賃貸マンションのはしりで当初相当な著名人・芸能人がお住まいだったようで、ロビ-にはグランドピアノが鎮座しているほわーとした雰囲気。
敷地内にはW大関連会社のプレ-トもあります。 母校への思いが凄いですね。

 

写真1枚目から②邸位置、②邸正門跡、②邸石灯籠(常夜灯)

③少し先に進んで目黒区に入り太陽教育スポ-ツセンタ-あたりからguriotte(パン屋さん)一帯、裏は小さな谷になっていて②宅庭の南端よりの小さな流れがあった。貝島家の屋敷で、こちらも広大な敷地で緑の濃い自然の中にあり背の高い古木が何本も、そして邸内には貝島家専属の庭師宅までもあった。
貝島家は炭鉱王で九州筑豊地方では安川・貝島・麻生が炭鉱3大財閥で、麻生家直系のご子孫とはあの麻生さんですよね。
平成13年発行の町会名簿にも貝島百合子さんのお名前が掲載されており、調べてみたら貝島炭鉱創業者太助→事業を継いだ三男太市→長女百合子の家系ですごいのは百合子さんの母親(太市妻)は日産コンツエルン創始者の鮎川儀介の妹です。
一度お目にかかったことがあるが、あの上品なおばあちゃんがそのような家系の方とは。
もそっとご尊顔を脳裏に刻んでおけばよかった。
いずれにしても大正12年の関東大震災の後、安全な郊外の別荘地的住宅としての需要がこの地域にあったのでしょう。①②③どちらも敷地楽々1000坪以上。
ほかに町内には北海道炭鉱(北炭)の系統の方も現在お住まいと聞いています。 明治から昭和30年代までの石炭産業の変遷がしのばれます。

④そしてパン屋さんの横の現在でも木々が生い茂っている私道を入り坂を下った小川の脇に(現在はあだち内科から駒沢公園に向かう道・当時は道はなく自由通り側からのみ出入りできた)陶芸家井高帰山の窯を備えた工房、帰山窯があった。
昭和前半における高名な陶芸家のおひとりと聞いており当地に大正末には窯を開いていたようで、農家を除く大原町会第一世代として町の形成発展にご苦労された方で当時すでにご高齢と見うけた。
又、帰山先生のご子息即山先生も陶芸家で初期の東根住区住民会議の会長を務められ、東根小学校校長室や東根住区センタ-に掲額されている昭和初期近隣の風景画を残されております。
余談ですが大正10年にこの地にいらした帰山先生は盆暮れに、駒沢の乾物屋粕屋で砂糖を買い求め親しい近隣農家に一斤(約600g)づつ配り、農家は収穫した野菜を返すなど親密な付き合いがあったそうです。
乾物屋の粕屋さんは10年ほど前まで営業してたし、当時は荒物屋とか小間物屋という今はない商店もあった。
そこから先、右手の野原(現在の駒沢公園第一駐車場)を過ぎ交差点を渡ると20件ほどの民家があり、その先は土地の農家新倉家で小字池淵(華屋与兵衛あたり)まで農地とともに緑が続いていて西側には碑文谷呑川駒沢支流が流れていた。
記述のように70年位前の大原町会自由通り右側は広大な敷地の数軒の家と空き地と少数の民家が所在する緑だらけの風景でした。

帰山窯入口

それでは駒澤大学駅前交差点から左側の風景
洋服の青山・マルエツ・ユニクロまでは確か富士木工所か富士自動車名のトラックの木製荷台を製作している工場で、マルエツの花屋さんのあたりが入り口でタイムカ-ドが置いてあり構内には小さな資材運搬用のトロッコが敷設されていた。
そこから民家と空き地が続きセブンイレブンの場所は福井県庁東京宿泊所があり県職員が出張の折利用していたが、特急つばめ号でも東京→京都8時間の時代だから福井までは米原経由で10数時間以上の乗車時間でお疲れ様でした。
その先八百屋さんとお米屋さんがあり場所は少し移動したけど桜井青果店さんです。
それから社宅などありその先はずーっと国立第二病院。
医療センタ-交差点渡ってから確か当時も郵便局はあり農家や民家が続いていましたし、去年まで所在した最高裁長官官舎については記憶ありませんが航空写真には立派なお宅がありますので当時から長官官舎だったのかな。

ミニストップ付近から駒沢大学駅方面を望んだ自由通りの風景

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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2021年6月13日

古老の書付け  六話

古老の書付け
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


六話 飯縄(いづな・いいづな)大権現 70年ほど昔~
東が丘2のこどもアトリエさんの前に所在する飯縄大権現。
名前から長野県飯縄山発祥の信仰なのでしょうか。
幅2m 奥行15m位の参道の奥に小さいので社ではなく祠と云うんでしょうか、きれいに手入れがされ祀られております。
大原町会内は昔からの家は主に小杉・栗山・新倉・根岸の分かれの各家で、ほとんどが農業を営んでいたようです。
旧家の裏庭とかそれに続くに畑などに祠があったことが記憶の中にあります。
この権現様もたぶんN家で管理の祠でしょうか。
この飯縄大権現のほかにも現在別のN家裏庭にも祠が祀ってありこれはお稲荷さん系統、近隣では東が丘駐在所の少し北側の畑(このブロックは全面K家一族の所有する畑だった)の片隅にも70年ほど前には祠(航空写真の赤枠内)が所在し、東根地区では他所にも同様な祠が所在しておりました。

 

* 先人が残した書付にはいづな大権現について下記記述が。
この一帯の小字は東梶屋敷で元禄年間(1700年頃)梶原姓の武士が土着し相当大きな屋敷があり子孫は根岸を名乗ったらしい。
屋敷の裏に塚を設け権現さまを祀り「いづな大権現」と申した。
そこには直径三尺ほどの檜がありが大正6年に枯れたが切り株は現存している。
膝等足部の痛みにご利益があり一日10人~15人と多くのの参詣があり、参詣人の線香の火で祠が焼けたこともあった。
小字 池淵(八雲5華屋与兵衛付近)には弁天が祀られており⒋5軒ほどの農家があったが、祠を含む池を畑に変えたところ不幸が続いて弁天を祀り直した。
以上確証はありませんが。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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2021年5月25日

古老の書付け  五話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


五話 幻の東京オリンピック 85年前~
1940年(昭和15年)の東京オリンピックは招致が決定していたのに、返上するハメになった幻のオリンピックです。
せっかくの機会でしたが当時の国際情勢の緊迫、そして国家指導部が国内外に下手を打ったのでしょうか。
当初神宮外苑競技場を改修しメインスタジアムとし開催予定のところが、体制の一部が難色を示したため広大な土地が広がるご当地、東京府荏原郡の旧駒沢ゴルフ場跡地に白羽の矢が立ったのでしょう。
ここに十万人規模収容のメインスタジアム・一万人収容の水泳競技上等施設群を建設し、1940年9月下旬~10月場下旬の予定で第12回オリンピックの開催が予定されました。
選手村の建設予定地も計画ではゴルフ場内。
広大な府有地で(深沢ハウスまで含む)都心から15キロほどと近く、交通手段は地下鉄銀座線の延伸も計画にあったようです。
その場合最寄り駅はやはり駒沢大学駅近辺だったのでしょうし、自由道りや駒沢通りは今の2~3倍の広い道路に。
今でも自由通りなどには拡幅のための規制(都市計画道路)が当時よりかかったままですが、事業化の話はこの先何十年とないでしょうね。
イメ-ジしてください。この東京オリンピックが開催の場合1964年の東京大会は当然ないので、2020東京大会は1940のメイン会場を取り壊しその時、ピカピカのスタジアムが神宮外苑ではなく医療センタ-前にそびえたっていたかもしれない。
町が違う街になっていたでしょうね、今とどちらが良かったかな。

 

1940年頃の航空写真に当時は無かった自由通りと駒沢通りを書き足すことによってゴルフ場の広さ位置関係が判ります。

町内に30年ほど前までお住まいだったご婦人で1936年第11回オリンピックベルリン大会に水泳の飛込競技に出場され、晩年はスイミングスク-ルで高齢者向けの水泳指導をされていた方がおられた。
日本選手団が整列しドイツの総統アドルフ・ヒトラー閣下と握手をしたそうです。
でもご婦人曰く「あのヒトラ-は影武者・ニセモノだったわよ」とのことです。

あと60日 2020東京五輪・パラリンピックは?

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

 

1940年オリンピックのポスターと五輪旗の準備風景

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2021年5月19日

町会員の皆様へ

日頃より町会の活動にご理解とご協力をいただき感謝申し上げます。
戸別配布チラシの方でもご報告させていただきましたが、今年度の町会活動計画となります。
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、回覧板の休止、秋の日帰りバス旅行を中止とさせて頂きます。
その他の行事等に関しましても中止・延期が想定されます。

皆様のご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

令和3年度 活動計画

防犯
1. 毎月町内防犯パトロールを実施
2. 警察主催の地域安全運動・警察及び防犯協会の研修会・講習会に参加
3. 児童の登下校時に見守りを実施(通年)
4. 防犯灯の点検・修理
5. 防犯カメラの運用と点検(町内既設23台)

消防・防災
1. 消防署主催の研修会等に参加、ポスター等による火災予防の周知
2. 町会防災倉庫の管理と用品の補充
3. 大型テントの設置訓練
4. 町内火災消火器・小型消火ポンプ・スタンドパイプ・災害無線機の点検
5. 10月東根地区7町会合同防災訓練を実施(東根小学校)

環境・清掃
1. ゴミの出し方『曜日と分別」の周知徹底と違法広告物の除去
2. 見学会・研修会への参加(清掃協力会)

青少年・婦人・公共団体
1. 東根小学校・第十中学校の入学式・卒業式に出席
2.十中校区朝のあいさつ運動に参加(年2回東根小・十中) ※春は中止
3. ほたる祭り・ぼんおどり・東根住区まつり等共催と出店
4. 社会福祉施設見学12月・2月
5. 女性防火の会・日赤献血に協力
6. 協力各種団体の総会・新年会に参加

交通
1. 警察主催の春と秋の全国交通安全運動に参加 ※春は中止
2. 上記運動期間中テントを設置し他町会と共に運動を推進
3. 放置自転車対策(東が丘2丁目14番地付近を放置自転車禁止地域に指定)

町会
1. 日赤募金・共同募金・歳末たすけあい募金・氷川神社奉賛金
2. 新入学祝い・敬老祝い・成人祝い(詳細は近くになりました告知させて頂きます)
3. 香典(班長さんもしくは役員までご連絡ください)

町会へのご質問・ご要望等ございましたらこちらよりご連絡をお願い致します。

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2021年5月1日

古老の書付け  四話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。

四話 碑文谷呑川柿の木坂支流 70年~65年ほど昔

大原町会の地形は東西を呑川支流の谷に挟まれた大原の台地上に所在します。
まずは東側の柿の木坂支流の記憶。
40年少し前に暗渠化され目黒区部分からは緑道になっているが、それ以前は目黒世田谷境のユニクロ通り(東が丘1-36、地図②)で世田谷区側の暗渠(直径50センチくらいの土管)がいきなり開渠になり川となって、東が丘1・柿の木坂3・2・1と東根地区を流れ都立大学駅付近で駒沢支流を合流してきた深沢本流と一緒になり緑が丘~蒲田~羽田へと。
その呑川ですが上流の東が丘1あたりでは幅2メートル深さ1メートルちょっとほどだったかな、流れは底の部分にせいぜい15センチほどで土手になっており子供には飛び越すことはできなかった。

水流・水質は? 暗渠から流量はチョロチョロでもなくザ-ザ-でもなくほどほどで薄茶色の多少どぶ臭のある水で、上質な流れではなかったのはこの川に水源や上流はなく川の起点は生活排水が主なのだったかもしれない。
強いて探せば上馬交差点脇の宗円寺さんあたりに多少の水源はあったのかな。(地図①付近)
その先付近を品川用水が流れていたが、すでに用水としての役割を終えた溜まり水程度のドブ川で、用水の落水が呑川の水源ではないと思う。
ただ、ひどい大雨の時には下流の柿の木坂方面で何度かの浸水がおきた。
流れの中は生物の生息にはほど遠い環境で魚影など見かけたこともなく、いたとしてもザリガニ程度だったか。
土手にはタンポポ・ツクシなどが自然のまま生えていて滑りやすく、小学校低学年の観察の授業で川に落ちた子もいた。

*ちょうど川の始まるユニクロ通り際に相田?会田?さん名の製粉工場があり通年むぎ焦がしの匂いが漂っていた。
*東根地区とは昔のこの地域における総称(大字)ですが、そもそも東に向け台地が谷に下っている斜面を指す言葉が【東根】だそうです。
*品川用水 武蔵境で農業用水として玉川上水からの分流し世田谷・目黒から品川区まで、当地では駒沢から上馬~野沢~品川用水の流れていた上馬(246と環七の交差点)の橋を旭橋といいます。
昭和20年代半ばには役わりを終え埋め立てられたが、当時上馬~野沢竜雲寺間は用水沿いにびっしりと商店が並び、ところどころに橋が架けられ「野沢銀座商店街」と称しとても賑わっていた。戦後まもなくは賑わいのある商店街には本家もビックリの銀座がついていて、こちら方面では「戸越銀座商店街」が有名。現在も「野沢銀座」やその2・3先に「水車橋」と名残のバス停名があります。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

 

昭和22年頃の航空写真と現在の地図との比較です、1上馬の宗円寺付近が源流? 2開渠は一番奥のポール付近から 3緑道石碑

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