大原町会の皆様
皆様本年も大変お世話になりありがとうございました。
今年もあとひと月ほど朝晩めっきり冷え込む季節になりましたが町会員の皆様、お元気にお過ごしのことと存じます。
町内は防犯カメラの効果もあり自転車盗(必ず施錠お願いします)などの軽微な事案数件以外 犯罪もなく安全で清潔な状態が保たれております。
今後とも明るく安全で清潔な町内環境維持に皆様のご協力お願い申します。
二年に渡るコロナ感染拡大の中、町会も控えめな活動に終始いたしました、回覧板も回すことができず皆様には
ご不便をおかけいたしましたが、回覧板含めコロナ対策を十分に施した上、徐々に活動再開していく予定です。
手始めに年内下記2件の屋外行事を企画しておりますので皆様方の参加をお待ち申し上げております。
【駒沢公園でジョギングを楽しむ会】 大原町会と柿の木坂5町会との合同企画
コロナ自粛もそろそろ終わり初冬の駒沢公園で体力増強いかがでしょうか。
開催日時:2021年12月18日(土)午前9時30分~ 小雨決行
開催場所:駒沢公園内中央広場 参加は0歳~100歳までOK
事前申し込みが必要です、締め切りは12月12日(日)
ホ-ムペ-ジ申し込みフォーム又は掲示板掲載チラシ記載の今井宛メールアドレスまたはFAX にてお願いします。
会費500円は町会で負担します 参加賞あります 詳細はこちらからご覧ください。
【町会防災倉庫見学会】
町会では非常時・災害時に必要な物品を少しずつ在庫の補強をしております。
今回皆様にご覧いただき在庫品の種類及び取り扱い方法等を簡単に説明いたします。
コロナ感染拡大のためここ2年間防災訓練も実施しておりませんので、皆様の参加お待ち申し上げております。
班長さんは是非参加お願いします。
開催日時:2021年12月26日(日)午前10時00分~午前11時30分 小雨決行
開催場所 八雲5-8-20 区営アパ-ト集会室前の大原町会防災倉庫 MAPはこちら
非常時用グッズ配布予定
尚、町会では飲・食料の備蓄はしておりません日常各ご家庭で準備ください。
町会では下記の各お祝いをご用意しておりますので該当する方は申し込みください
1,成人祝い 平成13年4月~14年3月生まれ 申し込みは12月5日~12月20日
2,新入学祝い 令和4年4月 新入学児童 申し込みは3月5日~3月21日
今年度中は回覧板を回せませんので、時期がきましたら掲示板かこちらのホ-ムペ-ジにてご案内致します。
また今年9月の敬老祝い(昭和21年生)で申し込みお忘れの方はご連絡お願いします。(ホームページからお問い合わせ)
どうぞよろしくお願い致します。
戸別配布チラシ 令和3年11月
駒沢公園でジョギングを楽しむ会のお知らせ
皆様、初冬の駒沢公園で⾏われる柿の⽊坂5町会との合同企画「ジョギングを楽しむ会」へ参加しませんか?
この地域にお住まいのお⼦様からご年配の⽅まで幅広い皆様からのご参加をお待ちしております。 新型コロナウィルスに対する感染防⽌の観点より、⼤勢が集まる場での事前の検温とマスク着⽤など感染防⽌にご協⼒をお願いいたします。
開催⽇時: 2021 年12 ⽉18 ⽇(土) 午前9:30〜12:00 ⾬天(⼩⾬)決⾏
集合場所: 駒沢公園内中央広場
9:30より受付開始、10:00〜 準備運動、写真撮影などの後 各⾃体⼒に合わせて歩く・⾛るなどコースを⾃由に回っていただきます。 最後は⾃由解散といたします。
申し込み方法
締め切り: 2021年12⽉12⽇(日)
申し込み先: ホ−ムペ−ジ申し込みフォーム、掲示板掲載チラシの今井宛メールアドレスまたはFAX番号より
(定員あり、先着順で締め切らせて頂きます)
申込時に必要な事項:住所、⽒名、連絡先(携帯電話番号またはEmail アドレス)
参加費: 500 円 は町会で負担します、記念品のご用意があります。
古老の書付け 十三話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
十三話 玉川電車(玉電)と真中停留場 其ノ弐 70年前~
真中ってご存じですか?
そうです、246と自由通りの交差点にあったのが玉電の真中停留場で、大原の住人の皆様がここから渋谷や都心方面に出るのに利用していました。
地名(住居表示ではない停留場周辺の総称)も交差点名も真中だったんですが、今はほとんど通用せずタクシードライバーさんに「真中までお願いします」「は~?」です。
ですが12、3年ぐらい前までは246交差点の表示板は駒沢大学駅前でなく【真中】だったんです。

今ではだいぶ遠くまで〇〇〇駒沢大学店とか△△△マンション駒澤大学と呼称していて真中と付くお店や集合住宅はアッという間に無くなりなりました。
今では東が丘二丁目でも駒澤大学名の新築建物がチラホラ、八雲五丁目も浸食されるかもしれません。
駅名の底力でしょうか、真中が付いていたらお客さんも入居者もいなくなくなりますね、オシャレさも感じませんよね。
それだけに【マルエツ真中店】は貴重です。しかし洋服の青山からユニクロまでの再開発で、マルエツさんも新しくなって営業始めたら真中店を名乗るのかな。
マルエツ真中店の契約はあと一年と少しほどだそうです。
246のEssoガソリンスタンドもまだ【真中SS】で、他に真中ビルが一棟現存してます。真中荘とか真中アパ-トの表札をだいぶ前に2,3見かけたことあるけど、もう真中は絶滅危惧種です。
そもそも真中と停留場名をつけたのは
①渋谷と二子玉川の中ほどだから。
②停留場付近の土地はほとんどが眞井(さない)家と中村家の土地で眞井と中村から真中。
いろいろ説があるようだが確定した説はないようです。
三菱UFJ銀行ができる前は八百半という眞井さんが営む八百屋さんだったし、中村家は確か松之木質店を営んでいた大地主さんで現在もあちこちに中村駐車場や松之木名のマンションなど見かけるし、芝道の駒沢寄りに開放されてる松之木都市林は中村家の庭。
70年前の停留場周辺には真中真栄会という商店街があり日用品は何でもそろったが、当時商店会長だった下駄屋さん(靴は扱っておらず下駄と草履だけ)そして鍛治屋さんもあり、お父さんと息子さんで炉とふいごを使い作業してました。
親子でトンチンカン・トンチンカンとたぶん近郷農家の鋤・鎌・鍬など、もっと前には大山道を行く馬の蹄鉄など製作していた農鍛治だったんでしょう。
でも昭和30年前には下駄屋さんも鍛治屋さんも時代の流れでなくなりました。
真中で今から70年前から続いているお店は、桝屋酒店・安達豆腐店・場所は変わったがフクシマ理髪店などですか。
桝屋は店の端に立ち飲みスペ-スがあり仕事帰りのお父さんたちが乾き物で一杯やっていたし、他二軒あった酒屋も同様に夕方は賑わっていた。 小学校入学前後の薄い記憶の中には駒沢大学駅(きらぼし銀行)のところには真中××館名の映画館があったが出火で全焼し、その後焼け跡ではサ-カスや浪曲の興行なども行われていた。(72~73年前の話です)
映画館は三軒茶屋には4・5軒、上馬にもありました。
資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老の書付け 十二話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
十二話 玉川電車(玉電)と真中停留場 其ノ壱 70年前~
皆様の中で玉電に乗車経験のある方はどのくらいおられるのでしょうか。
1907年(M40)開業1969年(S44)の廃線なので今から52年前、長く当地にお住まいの方でも玉電をご存じの方おおよそ60歳以上ですね。
そして新玉川線として開通したのが1977年(S52)、その間代替バス輸送で専用レ-ンができ特急やノンストップを含む多数のバス路線ができてはいたが、道路混雑がひどい時代で渋谷まで時間帯によっては40~50分はかかったと記憶している。
その後田園都市線と呼称が変わったが新玉川線開通が待ち遠しい年月でした。
その玉電ですがなにせ都電と同じ路面電車、車と道路共用なのでそれ以前も時間がかかり東横線を利用する地域の方がうらやましかった。
でも小学生のころ午後から雨になった日など、会社勤めの父親を真中の停留場まで迎えに行かされたが大体想定された時間に帰ってきた。
父親のきまじめさもあるけど運行もそれなりにされていたようだ。
ちなみに筆者の子供のころは車も少なく渋谷までの246の信号は三軒茶屋と上通り2か所だけ、大橋はどうだったかな。
三軒茶屋・下高井戸間は専用軌道でそのまま残り今はおしゃれな車両が走ってますね。
又、二子玉川・砧間を砧線が走っていて確か途中2・3駅(吉沢・中耕地・?・砧)ほどでコヤマドライビングスクール先、駒澤大学玉川キャンパスそばの河原脇が終点砧駅で、砂利採取跡の沼で鮒が釣れた。
玉電は明治末に多摩川の砂利採取・運搬を目的に敷設されたそうで、変遷はあったようだが筆者の子供の頃の停留場は渋谷・上通り・大坂上?・大橋・池尻・三宿・三軒茶屋・中里・上馬・真中(まなか)・駒沢・新町・桜新町・用賀・瀬田・二子玉川で駒沢から少し先は246の新道はなく、今の旧道を走っておりその中で屋根のある少しだけ駅っぽいのは渋谷を除き中里・駒沢・用賀?ぐらいで、他は道路の中央にコンクリ-トで島を作ったような乗客にはとても危険な乗降場所だった。(真中停留場の写真参照)
新町駅などその安全地帯もなく乗客は道ばたで待ち、電車がくると車の流れを横切って乗降していた。
下高井戸方面行の今の世田谷線は簡単であるが駅があり駅名も昔の儘で、三軒茶屋でポイント交換して渋谷からの電車の3本に1本ほどは下高井戸行に向い、行き先プレ-トは二子玉川行きが白地・下高井戸行きが赤地。基本は路面電車だが渋谷~上通り間他、数か所専用軌道の部分もありました。
渋谷駅は山手線・東横線・井の頭線と同じ2階で地下鉄は3階。
運賃は曖昧な記憶だが10円か15円で往復できたような気がするし、三軒茶屋乗り換えで下高井戸まで同一切符で行けた。(都電も同じような仕組で乗り換えあり)
筆者1956年(昭和31年)中学入学時、山手線渋谷→浜松町間大人運賃が10円で(現在は200円)、渋谷東急文化会館(現渋谷ヒカリエ)が開業しニュ-ス専門上映館(東急ジャ-ナル)が有りここも10円で当時の10円って存在感ありました。
玉電の車両は写真と同じで廃止前何年かは不二家のペコちゃん型のちょっとかわいいのも走っていて、後年は2両連結が多く乗車は前・後ろの2か所で乗降を車掌さんが確認すると2回紐を引く、運転席でチンチンと2回鳴り発車する、手動人間には懐かしい音だな。 車庫は大橋で現在の首都高大橋ジャンクション・天空庭園のあるところ。 町内の住人が皆利用した不便な真中停留場、でも今では「渋谷ハチ公に集合!」って号令かかったら、大原の住人が目黒区民の中でも何番目かにハチ公の足つかめますよ。
なにせ渋谷までの乗車時間6分、いろいろあったようだが駒沢や上馬でなく駒澤大学駅が真中にできてよかった。
*この連載にたびたび記述の【駒澤】とは246と駒沢公園通りの交差点。
【真中】とは246と自由通りの交差する駒澤大学駅前交差点のことです。
*玉電真中停留場は現在の駒沢大学駅で路面電車の玉電や都電の駅は停留場(所)と呼んだ。
246(玉川通り)は厚木街道のことで昔は大山道と呼び、三軒茶屋や用賀に道しるべがあったが今はどうなんでしょうか?
大山道は江戸庶民に大人気の大山詣でに使われた道。
資料は先人の残したものやネットから。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
前回十一話の集合写真の答え、最前列右から4人目が今井会長です。
古老の書付け 十一話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
十一話 当時の東根小学校と4町通学区域 70年~65年ほど昔
昭和25年開校当時の校舎は国立第二病院内の倉庫(旧海軍療品庫)ということですが、先人の話では一階が軍馬の厩舎だったという話もあり、東根小学校ホ-ムペ-ジにちらっと姿が見られる黒褐色のそれは古びた二階建ての建物で、階段は東と西そして外部に一か所、中央が廊下で、左右に教室が連なり職員室は入り口から左手前の部屋だった。
校舎内は暗く常時廊下は点灯されており、冬はとても寒くたしか教室に石炭スト-ブがあったと思うが隙間風がひどく おかげで理科の「空気の対流」の実験はとてもよく理解できた。
この校舎には 三年生まで過ごし、四年生から(昭和28年度)からは完成した第一校舎に移りとてもうれしかった。
校庭は低学年のころは小石だらけの荒れた土のグランドで体育館もプ-ルもない時代。面積は現在より広かったのだろうがなにせ高学年の頃には団塊の世代が続々と入学を始め、おそらく千数百名の全校児童数で校庭はとても狭く感じた。
卒業アルバム見ると一学級65人以上学年三学級で200人、高学年になると身体が皆大きくなり教室はキツキツで通路も狭かった。密だったな~

このクラス写真に今井会長が写っています、探してみてください。(答えは次回、十二話にて)
校長は初代喜多村先生・2代中野先生の時代で戦後の復興期の入り口で新任の先生には詰め襟の学生服姿も見られた時代。
初代の喜多村校長先生は渋谷区立大向小学校校長に転任され、クラスの子何人かでお邪魔した記憶があり東根より立派な学校だなと子供心に。
大向小学校の跡地には後年東急百貨店本店が開店しました。
通学範囲は今と同じで大原・柿の木坂・衾・芳窪の4町からが基本で区域外からも大勢いたが、全体の30%以上は柿の木坂からの児童だった。(今もそうなのかな?)
当時駒沢通り南側部分の柿の木坂・衾等々は都立大駅に近く、しかも戦前に東急系でしょうかデイベロッパーが入り造り上げた街のようで整然とした高級感のある街並みでした。
同級生の中にはテニスコ-トを備えた家や自家用車保有の家の子もいた。
それに比べ駒沢通りから北側は畑や空き地が多く、人家のまばらな地域も多くあり中には交通がとても不便そうなところもあった。
柿の木坂・衾町は社長や重役、大原町は会社員・公務員そして医療関係者、芳窪町は農家・職人さんや様々なお仕事の方が多いなとのイメ-ジで、子供心にもなにほどかの地域差を感じそれは最寄り駅(東横線都立大学と玉電真中)や町の生立ちに関係もあるのかな~なんて考えていたことも。
確か駅名は都立大学駅は都立高校駅で学芸大学駅は第一師範駅でした。
尚、入学時のランドセル購入場所は父親と一緒に行った渋谷道玄坂の露天商、当時ずらっと並ぶ露店のカ-バイドランプ(アセチレン)の匂いが今のおまつりの雰囲気だった。
そのランドセルは丈夫で卒業まで使用できました。
今と同じで柿の木坂・衾(ふすま・現八雲の大部分)の文化通り以南に住む子供は八雲小学校に通学していた。
年に一度4町対抗野球大会が学校主催?であり6年生の時1回戦は芳窪に勝利したが、決勝で柿の木坂にサヨナラ負けしたのが悔しくて!
*東根小学校開校の前は八雲小学校の分校だったが現在の東根小学校は地域の発展も あり目黒区有数の小学校に成長しました。
資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。
古老の書付け 十話
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。
十話 駒沢球場と東映フライヤ-ズ 67年前~
毎週日曜朝TVでご意見番としてご高説を述べられておられるHさん、何かとご発言が話題ですね。
また残念ながら、日ハム主砲の暴力行為も報道されております。
ふ~んそして巨人行きですか、東映→巨人のル-トはHさん含め何人かありました。
東映フライヤ-ズの流れは現在の日本ハムファイタ-ズです。
そこで急に球場開設当時やその辺の思い出など書きたくなって。
原野→ゴルフ場→幻のオリンピックメインスタジアム予定地→→食糧難時の畑と変遷した駒沢公園の中に1954年(昭和29年)駒沢球場が完成しました。
場所は現在の第二球技場と補助競技場あたりで正面入口は幼児用自転車広場前あたり、バックスクリーンは電通グランド方向でした。
航空写真は昭和30年頃と思われます。
当時プロ野球は在京球団数が多く後楽園球場に本拠地とする球団が4~5球団あり、東急フライヤ-ズが駒沢に東京急行資本で2万人収容の球場を建設、確か翌年から東映フライヤ-ズとして1961年(昭和36年)まで本拠地としたが、球場はその後東京オリンピック1964大会競技地として取り壊され、東映フライヤ-ズは神宮球場に移りました。
在、駒澤時代は短い期間でしたが何もなかった当時野球は大人も子供も最大娯楽で、この辺では大多数の子供が巨人ファンから東映ファンになり、まじかで見れるプロ野球に熱中し球場に通いました。
入場料は外野が子供30円か50円だったかよく覚えていませんが、外野に入ってからコンクリ-トの壁の上を係がいないとき伝って内野席に。
球場ができて2・3年経つと外野側の金網が少し破れ、そこからよく潜り込んで内野席まで到達ゴメンナサイ。
ここでは東都六大学リ-グも行われており当時、中央・専修・日大・学習院・駒沢・農大だったかな。
知ってます・見てました
- 土橋投手の連続9三振含む一試合16奪三振
- 「満塁振り逃げホ-ムラン」の大事件
これは2死満塁で大毎山内選手が三振したがこれを東映の捕手が後逸、満塁なので振り逃げは成立しないと東映ナインはベンチに戻ったが、その間に山内まで4人が生還4得点振り逃げ成立です。
この時の主人公は正捕手でオ-ルスタ-にも出場したA捕手、お元気でずっと東が丘2にお住まいです。 - 毎週日曜日朝のTVでご高名、ご意見番Hさんは1959年(昭和34年)入団でいきなり新人王ですぐ4番、すごい選手が入団したなと皆で話していた。
フライヤ-ズの寮は駒沢公園通りにあり無私寮といって、寮住まいの若い選手をこの辺でもよく見かけたが、Hさんは先輩(同窓でもある)の山本八郎選手(暴力事件が多く評判が悪かった)と真中の八百半でだろうか、買い求めたリンゴをドテラ姿でかじりながら自由通りを闊歩していたが・・・・・あのリンゴの芯はどこにいったのかな。 - 山本八郎選手の審判などへの暴行事件(確か2回)もキチンと見ました。
毎日野球ばかり見てたんだな。 - フライヤ-ズはとにかく弱かったが駒沢時代最後の2年ほどから少しずつチ-ム力が強化され、最終年巨人の名監督だった水原茂氏を招聘、翌年神宮に移って優勝した。
チ-ムの初期の構成は監督・コ-チ1名・選手せいぜい40名と簡素な陣容だった。
2軍などなかった。 - 試合の日は渋谷や自由が丘から直行バスがあり、初期のころには観客と同じバスで球場入り、そして帰りも観客と一緒でバス通勤?の選手もいた。
- 日本ハムファイターズの監督を務めのちにHさんと、朝のTVにやはりご意見番として2010年ごろまで出演されていた大沢啓二監督もながく東が丘2にお住まいで、TV出演の和服姿で日曜の朝TBSからの迎えのハイヤ-を自宅前の縁石に腰をかけ、待たれていたがこのころすでに体調を崩されていたようだ。
- 駒沢のお菓子屋(池田屋さん?)の看板娘はかわいいと、評判だったが内野手のS選手と結婚したとか。
- 球場は両翼90メ-トルほど、外野フェンスも低かったがホ-ムランはそれほど多くはなかったのは、道具と技術など今とは違っていたのでしょう。
やぶ蚊の多い砂塵舞い上がるグランドで、2・3年後にナイタ-設備が完成した。 - 子供向けファンクラブ少年フライヤ-ズに入会しスタンプ集めに夢中だった。
フライヤ-ズグッズがもらえた。
球場正面入り口があった現在の第二球技場付近
資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください












