「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧

2021年9月18日

古老の書付け  十一話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十一話 当時の東根小学校と4町通学区域 70年~65年ほど昔

昭和25年開校当時の校舎は国立第二病院内の倉庫(旧海軍療品庫)ということですが、先人の話では一階が軍馬の厩舎だったという話もあり、東根小学校ホ-ムペ-ジにちらっと姿が見られる黒褐色のそれは古びた二階建ての建物で、階段は東と西そして外部に一か所、中央が廊下で、左右に教室が連なり職員室は入り口から左手前の部屋だった。
校舎内は暗く常時廊下は点灯されており、冬はとても寒くたしか教室に石炭スト-ブがあったと思うが隙間風がひどく おかげで理科の「空気の対流」の実験はとてもよく理解できた。
この校舎には 三年生まで過ごし、四年生から(昭和28年度)からは完成した第一校舎に移りとてもうれしかった。
校庭は低学年のころは小石だらけの荒れた土のグランドで体育館もプ-ルもない時代。面積は現在より広かったのだろうがなにせ高学年の頃には団塊の世代が続々と入学を始め、おそらく千数百名の全校児童数で校庭はとても狭く感じた。
卒業アルバム見ると一学級65人以上学年三学級で200人、高学年になると身体が皆大きくなり教室はキツキツで通路も狭かった。密だったな~


このクラス写真に今井会長が写っています、探してみてください。(答えは次回、十二話にて)

校長は初代喜多村先生・2代中野先生の時代で戦後の復興期の入り口で新任の先生には詰め襟の学生服姿も見られた時代。
初代の喜多村校長先生は渋谷区立大向小学校校長に転任され、クラスの子何人かでお邪魔した記憶があり東根より立派な学校だなと子供心に。
大向小学校の跡地には後年東急百貨店本店が開店しました。

通学範囲は今と同じで大原・柿の木坂・衾・芳窪の4町からが基本で区域外からも大勢いたが、全体の30%以上は柿の木坂からの児童だった。(今もそうなのかな?)
当時駒沢通り南側部分の柿の木坂・衾等々は都立大駅に近く、しかも戦前に東急系でしょうかデイベロッパーが入り造り上げた街のようで整然とした高級感のある街並みでした。
同級生の中にはテニスコ-トを備えた家や自家用車保有の家の子もいた。
それに比べ駒沢通りから北側は畑や空き地が多く、人家のまばらな地域も多くあり中には交通がとても不便そうなところもあった。
柿の木坂・衾町は社長や重役、大原町は会社員・公務員そして医療関係者、芳窪町は農家・職人さんや様々なお仕事の方が多いなとのイメ-ジで、子供心にもなにほどかの地域差を感じそれは最寄り駅(東横線都立大学と玉電真中)や町の生立ちに関係もあるのかな~なんて考えていたことも。
確か駅名は都立大学駅は都立高校駅で学芸大学駅は第一師範駅でした。

尚、入学時のランドセル購入場所は父親と一緒に行った渋谷道玄坂の露天商、当時ずらっと並ぶ露店のカ-バイドランプ(アセチレン)の匂いが今のおまつりの雰囲気だった。
そのランドセルは丈夫で卒業まで使用できました。
今と同じで柿の木坂・衾(ふすま・現八雲の大部分)の文化通り以南に住む子供は八雲小学校に通学していた。
年に一度4町対抗野球大会が学校主催?であり6年生の時1回戦は芳窪に勝利したが、決勝で柿の木坂にサヨナラ負けしたのが悔しくて!

*東根小学校開校の前は八雲小学校の分校だったが現在の東根小学校は地域の発展も あり目黒区有数の小学校に成長しました。

 

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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2021年8月22日

古老の書付け  十話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十話 駒沢球場と東映フライヤ-ズ  67年前~

毎週日曜朝TVでご意見番としてご高説を述べられておられるHさん、何かとご発言が話題ですね。
また残念ながら、日ハム主砲の暴力行為も報道されております。
ふ~んそして巨人行きですか、東映→巨人のル-トはHさん含め何人かありました。
東映フライヤ-ズの流れは現在の日本ハムファイタ-ズです。

そこで急に球場開設当時やその辺の思い出など書きたくなって。
原野→ゴルフ場→幻のオリンピックメインスタジアム予定地→→食糧難時の畑と変遷した駒沢公園の中に1954年(昭和29年)駒沢球場が完成しました。
場所は現在の第二球技場と補助競技場あたりで正面入口は幼児用自転車広場前あたり、バックスクリーンは電通グランド方向でした。

 

航空写真は昭和30年頃と思われます。

 

当時プロ野球は在京球団数が多く後楽園球場に本拠地とする球団が4~5球団あり、東急フライヤ-ズが駒沢に東京急行資本で2万人収容の球場を建設、確か翌年から東映フライヤ-ズとして1961年(昭和36年)まで本拠地としたが、球場はその後東京オリンピック1964大会競技地として取り壊され、東映フライヤ-ズは神宮球場に移りました。
在、駒澤時代は短い期間でしたが何もなかった当時野球は大人も子供も最大娯楽で、この辺では大多数の子供が巨人ファンから東映ファンになり、まじかで見れるプロ野球に熱中し球場に通いました。
入場料は外野が子供30円か50円だったかよく覚えていませんが、外野に入ってからコンクリ-トの壁の上を係がいないとき伝って内野席に。
球場ができて2・3年経つと外野側の金網が少し破れ、そこからよく潜り込んで内野席まで到達ゴメンナサイ。
ここでは東都六大学リ-グも行われており当時、中央・専修・日大・学習院・駒沢・農大だったかな。

 

知ってます・見てました

  1. 土橋投手の連続9三振含む一試合16奪三振
  2. 「満塁振り逃げホ-ムラン」の大事件
    これは2死満塁で大毎山内選手が三振したがこれを東映の捕手が後逸、満塁なので振り逃げは成立しないと東映ナインはベンチに戻ったが、その間に山内まで4人が生還4得点振り逃げ成立です。
    この時の主人公は正捕手でオ-ルスタ-にも出場したA捕手、お元気でずっと東が丘2にお住まいです。
  3. 毎週日曜日朝のTVでご高名、ご意見番Hさんは1959年(昭和34年)入団でいきなり新人王ですぐ4番、すごい選手が入団したなと皆で話していた。
    フライヤ-ズの寮は駒沢公園通りにあり無私寮といって、寮住まいの若い選手をこの辺でもよく見かけたが、Hさんは先輩(同窓でもある)の山本八郎選手(暴力事件が多く評判が悪かった)と真中の八百半でだろうか、買い求めたリンゴをドテラ姿でかじりながら自由通りを闊歩していたが・・・・・あのリンゴの芯はどこにいったのかな。
  4. 山本八郎選手の審判などへの暴行事件(確か2回)もキチンと見ました。
    毎日野球ばかり見てたんだな。
  5. フライヤ-ズはとにかく弱かったが駒沢時代最後の2年ほどから少しずつチ-ム力が強化され、最終年巨人の名監督だった水原茂氏を招聘、翌年神宮に移って優勝した。
    チ-ムの初期の構成は監督・コ-チ1名・選手せいぜい40名と簡素な陣容だった。
    2軍などなかった。
  6. 試合の日は渋谷や自由が丘から直行バスがあり、初期のころには観客と同じバスで球場入り、そして帰りも観客と一緒でバス通勤?の選手もいた。
  7. 日本ハムファイターズの監督を務めのちにHさんと、朝のTVにやはりご意見番として2010年ごろまで出演されていた大沢啓二監督もながく東が丘2にお住まいで、TV出演の和服姿で日曜の朝TBSからの迎えのハイヤ-を自宅前の縁石に腰をかけ、待たれていたがこのころすでに体調を崩されていたようだ。
  8. 駒沢のお菓子屋(池田屋さん?)の看板娘はかわいいと、評判だったが内野手のS選手と結婚したとか。
  9. 球場は両翼90メ-トルほど、外野フェンスも低かったがホ-ムランはそれほど多くはなかったのは、道具と技術など今とは違っていたのでしょう。
    やぶ蚊の多い砂塵舞い上がるグランドで、2・3年後にナイタ-設備が完成した。
  10. 子供向けファンクラブ少年フライヤ-ズに入会しスタンプ集めに夢中だった。
    フライヤ-ズグッズがもらえた。

 

球場正面入り口があった現在の第二球技場付近

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください

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2021年8月15日

古老の書付け  九話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


九話 子供達の遊び場 ゴルフ場跡と大学周辺 ずっと昔~

駒沢公園は明治のころまでは駒沢村字狸谷(まみがや)の地でせいぜい茅場として利用されるぐらいの雑草だらけの土地、地名からしてタヌキやキツネなどいたのか。

品川用水も246の北側から上馬で環七方面に流れていたため水田・畑には不向きの土地柄だったのでしょう。

この地に東京ゴルフ俱楽部駒澤コ-スが開場したのが1914年(大正3年)で敷地は現在の駒沢公園全域。

オ-プン当初は6ホ-ルで徐々に増設していったようで入り口は駒沢公園通りの公園西口あたり、クラブハウスは現在の幼児用自転車練習場あたりだったようで昭和天皇もプレ-されたそうです。

 

しかし筆者の記憶にあるゴルフ場跡は戦争で荒れ果て所々草むらのある全くの赤土の荒野で、後年都立公園として整備された砧ゴルフ場や野川のICUゴルフ場跡などは各ホ-ル形状がある程度分かるが、当時の駒沢は全くゴルフ場を思い起こせる物はなく何面かの草野球場等が点在し草むらの上空にはヒバリが舞っていて、春一番の吹く頃は南風に乗り赤土が舞い上がりそれが大原町内に、空は真っ黄色で家の中までザラザラ。

これは戦中・戦後に食糧増産のため近隣農家に委託してグリ-ンを農地化したが、その後農地としては不適とされ耕作放棄されたためですか。

周辺はその昔は谷筋で湿地もあったのか、たとえば公園内のジャブジャブ池あたりには沼があり、もしかしてコ-スのウオーターハザ-ドだったのかも知れない。

地形には高低差もあり映画撮影など行われていて、記憶にあるのは総天然色・シネマスコ-プ(こんな言葉死語ですね)と銘打って大ヒットした「明治天皇と日露戦争」の旅順203高地攻略戦での撮影、乃木大将役の俳優が「突撃!」と指揮棒を振り上げていた。      

お隣がゴルフ場オ-プンと同時期に神田から移転した駒澤大学で当時は曹洞宗大学。昭和20年代後半ごろの記憶では、文学部と仏教学部主体の学生数の少ないこじんまりした大学で、お寺の子弟でしょうかくりくり坊主頭の学生をよく見かけた。

大学図書館の耕雲館は歴史的建造物で、電通八星苑編で前述したフランク・ロイド・ライト風の建物(設計者は日本人)。                       

正門横の榎本自転車店の貸自転車を一台だけ借り、大学グランドで近所の子供達全員で練習し全員短時間でマスタ-できたが、自転車返却時に軽くひと言注意をされた。

大原町内には空き地もあったが遊びはほとんどこの地域、子供の遊び場には最適であったのか柿の木坂や衾(現八雲)の東根小児童も下記1~4にはよく遠征してきた。

当時は中学受験した生徒も五・六年生にちょっと塾に行く程度でよく遊んでいた。

1.ゴルフ場跡では野球中心に夕方までなんでも遊べた

2.電通八星苑脇の田んぼ跡で泥穴に肘まで手を入れザリガニとり

3.当時の駒沢通り・自由通りは穴だらけで、駒澤大学屋上(写真でロの字型の本館)でのロ-ラ-スケ-ト(守衛さんによく怒られた)

4.駒大正門横にある三菱重工の巨大社宅マンション、当時は広大な一軒家(空家?)がありなぜか垣根の隙間から誰でも入れた。庭に100坪はあるひょうたん池と呼んでいた池がありそこでの魚釣り

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

                                     

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2021年7月25日

古老の書付け  八話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


八話 大原町会歴史と環境など  昔~今

資料では今から100年前(大正10年)大原町会内一帯は何軒かの農家と近年この地に移住してきた10軒に満たない民家があるに過ぎない原野の中に畑と少しの水田があった地域のようでその後、東大原・東梶屋敷・東池淵・東前原などの小字を集め大原町となったようです。
この時代に大流行したのがスペイン風邪、日本では第3波まであり国民全体の4割近くが罹患し35万人が死亡したそうです。
江戸時代のコレラなど5月に長崎出島に上陸し8月にはもうには江戸で流行っていたそうで、航空機も車もない時代なのに早いですね。スペイン風邪にしろコレラにしても収束までは3年ほどかかったようで、コロナも最短でも来年までは自粛と辛抱が続くのでしょうね。
横道にそれましたがこれより20年ほど前(明治後半)には大原と隣の芳窪(東が丘1)あわせて12軒の農家があったに過ぎなかったとか。
今では東が丘2・八雲5とかいって、程度の良い住宅地との評価を世間様からいただいているけれど。
大正12年の関東大震災の経験から安全な郊外を求めポツポツと軒数が増えて、昭和3年には町内の住環境改善を主目的として東大原会が設立され、昭和8年には大原町会と改組し昭和20年の終戦まで続いたが中断、その後復活し今年で66年目・通算90年近い歴史を持つ町会です。
玉電真中停留場から町内に入るには自由通り前身は、セブンイレブンあたりまでは田のあぜ道程度の泥濘地で通行には全く不適で、絵図のように東側の道より町内に入るのがル-トだったようだがその道も外(街)灯がなく夜間は真っ暗、雨天時など膝まで没するぬかるみに難渋し、それならば通行環境改善のため碑衾町役場から補助を受け不足分は皆で拠金し、外灯をつけ砂利を敷こうとの互助の精神が始まりで、昭和3年の東大原会の設立につながりました。
昭和初期、先人の皆様方のご苦労がが思い浮かばれます。


左)砂利敷き絵図 玉川線(246)に面して旧駒沢小跡地、跡地左下が現在のユニクロ周辺、表記されているうち何軒かの家は現住している
右)趣意書

*東大原会設立時の会員数38軒
会費 月に一口10銭(一口以上) 明細は10口負担が17軒・5口負担が15軒その他となっている。
因みに当時の物価  コ-ヒ-・そば 10銭  ビ-ル大瓶40銭
町会費は昔が高いのかそれとも今が安いのかな?
当地に電燈が引けたのは大正12年だそうで・戸数の少ない地域のため消極的な 電燈会社に私財までを投じ運動をし、工事まで手伝った方もいらしたとのことで先人の皆様には頭が下がります。
町内の環境は皆様のおかげもあり都内でもほどほどの住宅地として好環境を保ち、道路一つ考えてみても広く、これは明治の昔に太郎兵衛さんという方を先頭に農家の皆さんが道幅二間半(4メ-トル50)以上を主張し用地も寄付されたからだそうです。
ありがたいことで道路が未熟の土地には良好な住宅地は育ちませんよね。
又、町内の多くが台地上にあり駒沢公園の15%程度を町内に含み、しっかりした住宅が多く都内5000以上の町・丁目の中でも安心な街の一つでしょう。
参考までに東京都震災危険度総合ランクは八雲5丁目・東が丘2丁目ともランク1です。
町内でいままで地震や風水害の大きな被害は聞いてないけど安心はダメでしょうね。
60年以上前(昭和34年)の伊勢湾台風は中部地方を通過したのに、夜間の強風で恐怖を感じ眠れなかった。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。


左)町内入り口の寄付・押し売り謝絶標柱 盗難予防警報装置ありとの表記もある
中)梶屋敷(現・医療センタ-方面か)風景
右)村社氷川神社の神主さんとお歴々(ご子孫の方おられますか)

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2021年7月5日

古老の書付け  七話

古老の書付

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


七話 駒沢大学駅から自由通りの風景 70年ほど昔

まず右側 駒沢大学駅前交差点から現在の駒澤食堂までの区割りは現在と大差ないけれど、数軒ほどの商店(八百屋・下駄屋・魚屋・飲み屋)と医院や住宅など。
その先は凄くて、①ミニストップ駒沢1丁目店からアジアンビストロのある駒澤自由通りビルまでのニッポンレンタカ-や2棟のマンションを含む一帯が一軒の屋敷で、車寄せまで直接車で入れるすごさで現在アジアンビストロのある建物はお抱え運転手のお住まい、昭和45年ごろには外資系男性化粧品会社のオ-ルドスパイス日本本社になり、お邪魔したことがあるけど上質な昭和初期の洋館ってこんな雰囲気なのかなと思った。
この屋敷のことを子供のころ「シシャク」と呼んでいたがこれは爵位の下から2番目の子爵のことで、「井上」という教育勅語をつくった明治の人と聞いていたので調べてみたらたぶん明治憲法や教育勅語の起案に関与し、法制局長官や文部大臣をつとめた子爵井上毅の流れの方のお住まいだったのかな。
ミニストップあたりの木々はコウモリのすみかになっていて夕方になるとギャ-ギャ-と又、隣の駒沢グランドヒルズ付近は大きな池で繁殖期でしょうか食用ガエルがボ-ボ-鳴いてうるさかった。

 

②その隣現在の駒沢ガ-デンハウスも一軒の屋敷で、①の井上子爵さんよりもっと広大な敷地そして森の中、お名前は思い出せないが(前田?)正門は自由通りの一本西側の道にあり高さ3メートルほどの映画に出てきそうな立派な木製の門があり、そこから邸内に幅4~5メートルはある道が伸び建物は窺うことはできなかったが、当時の航空写真を見ると南面に芝生の庭を配し建物が連なっている。
セブンイレブン前あたりの邸内には桜の古木が並びお花見シ-ズンには宴で賑わっていた。
この屋敷は昭和60年頃まで存在し その後当主がW大学のご出身とのことで、そのご遺志により大学に寄贈され駒沢ガ-デンハウスが建てられたと聞いており、このあたりではコンシェルジュサ-ビス付きの高級賃貸マンションのはしりで当初相当な著名人・芸能人がお住まいだったようで、ロビ-にはグランドピアノが鎮座しているほわーとした雰囲気。
敷地内にはW大関連会社のプレ-トもあります。 母校への思いが凄いですね。

 

写真1枚目から②邸位置、②邸正門跡、②邸石灯籠(常夜灯)

③少し先に進んで目黒区に入り太陽教育スポ-ツセンタ-あたりからguriotte(パン屋さん)一帯、裏は小さな谷になっていて②宅庭の南端よりの小さな流れがあった。貝島家の屋敷で、こちらも広大な敷地で緑の濃い自然の中にあり背の高い古木が何本も、そして邸内には貝島家専属の庭師宅までもあった。
貝島家は炭鉱王で九州筑豊地方では安川・貝島・麻生が炭鉱3大財閥で、麻生家直系のご子孫とはあの麻生さんですよね。
平成13年発行の町会名簿にも貝島百合子さんのお名前が掲載されており、調べてみたら貝島炭鉱創業者太助→事業を継いだ三男太市→長女百合子の家系ですごいのは百合子さんの母親(太市妻)は日産コンツエルン創始者の鮎川儀介の妹です。
一度お目にかかったことがあるが、あの上品なおばあちゃんがそのような家系の方とは。
もそっとご尊顔を脳裏に刻んでおけばよかった。
いずれにしても大正12年の関東大震災の後、安全な郊外の別荘地的住宅としての需要がこの地域にあったのでしょう。①②③どちらも敷地楽々1000坪以上。
ほかに町内には北海道炭鉱(北炭)の系統の方も現在お住まいと聞いています。 明治から昭和30年代までの石炭産業の変遷がしのばれます。

④そしてパン屋さんの横の現在でも木々が生い茂っている私道を入り坂を下った小川の脇に(現在はあだち内科から駒沢公園に向かう道・当時は道はなく自由通り側からのみ出入りできた)陶芸家井高帰山の窯を備えた工房、帰山窯があった。
昭和前半における高名な陶芸家のおひとりと聞いており当地に大正末には窯を開いていたようで、農家を除く大原町会第一世代として町の形成発展にご苦労された方で当時すでにご高齢と見うけた。
又、帰山先生のご子息即山先生も陶芸家で初期の東根住区住民会議の会長を務められ、東根小学校校長室や東根住区センタ-に掲額されている昭和初期近隣の風景画を残されております。
余談ですが大正10年にこの地にいらした帰山先生は盆暮れに、駒沢の乾物屋粕屋で砂糖を買い求め親しい近隣農家に一斤(約600g)づつ配り、農家は収穫した野菜を返すなど親密な付き合いがあったそうです。
乾物屋の粕屋さんは10年ほど前まで営業してたし、当時は荒物屋とか小間物屋という今はない商店もあった。
そこから先、右手の野原(現在の駒沢公園第一駐車場)を過ぎ交差点を渡ると20件ほどの民家があり、その先は土地の農家新倉家で小字池淵(華屋与兵衛あたり)まで農地とともに緑が続いていて西側には碑文谷呑川駒沢支流が流れていた。
記述のように70年位前の大原町会自由通り右側は広大な敷地の数軒の家と空き地と少数の民家が所在する緑だらけの風景でした。

帰山窯入口

それでは駒澤大学駅前交差点から左側の風景
洋服の青山・マルエツ・ユニクロまでは確か富士木工所か富士自動車名のトラックの木製荷台を製作している工場で、マルエツの花屋さんのあたりが入り口でタイムカ-ドが置いてあり構内には小さな資材運搬用のトロッコが敷設されていた。
そこから民家と空き地が続きセブンイレブンの場所は福井県庁東京宿泊所があり県職員が出張の折利用していたが、特急つばめ号でも東京→京都8時間の時代だから福井までは米原経由で10数時間以上の乗車時間でお疲れ様でした。
その先八百屋さんとお米屋さんがあり場所は少し移動したけど桜井青果店さんです。
それから社宅などありその先はずーっと国立第二病院。
医療センタ-交差点渡ってから確か当時も郵便局はあり農家や民家が続いていましたし、去年まで所在した最高裁長官官舎については記憶ありませんが航空写真には立派なお宅がありますので当時から長官官舎だったのかな。

ミニストップ付近から駒沢大学駅方面を望んだ自由通りの風景

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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2021年6月13日

古老の書付け  六話

古老の書付け
筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


六話 飯縄(いづな・いいづな)大権現 70年ほど昔~
東が丘2のこどもアトリエさんの前に所在する飯縄大権現。
名前から長野県飯縄山発祥の信仰なのでしょうか。
幅2m 奥行15m位の参道の奥に小さいので社ではなく祠と云うんでしょうか、きれいに手入れがされ祀られております。
大原町会内は昔からの家は主に小杉・栗山・新倉・根岸の分かれの各家で、ほとんどが農業を営んでいたようです。
旧家の裏庭とかそれに続くに畑などに祠があったことが記憶の中にあります。
この権現様もたぶんN家で管理の祠でしょうか。
この飯縄大権現のほかにも現在別のN家裏庭にも祠が祀ってありこれはお稲荷さん系統、近隣では東が丘駐在所の少し北側の畑(このブロックは全面K家一族の所有する畑だった)の片隅にも70年ほど前には祠(航空写真の赤枠内)が所在し、東根地区では他所にも同様な祠が所在しておりました。

 

* 先人が残した書付にはいづな大権現について下記記述が。
この一帯の小字は東梶屋敷で元禄年間(1700年頃)梶原姓の武士が土着し相当大きな屋敷があり子孫は根岸を名乗ったらしい。
屋敷の裏に塚を設け権現さまを祀り「いづな大権現」と申した。
そこには直径三尺ほどの檜がありが大正6年に枯れたが切り株は現存している。
膝等足部の痛みにご利益があり一日10人~15人と多くのの参詣があり、参詣人の線香の火で祠が焼けたこともあった。
小字 池淵(八雲5華屋与兵衛付近)には弁天が祀られており⒋5軒ほどの農家があったが、祠を含む池を畑に変えたところ不幸が続いて弁天を祀り直した。
以上確証はありませんが。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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