「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧

2022年8月7日

古老の書付け 十九話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十九話 大原歳時記(壱) 夏編 70年前頃

プ-ル
何カ所かあったが小学生の頃一番多く通ったのは現駒沢公園の中を歩き深沢の日体大プ-ル(確か25M?)。駒沢通りと呑川の角にあり帰りの深沢不動そばの氷やさんでの氷いちごがサイコ-でした。
他には二子玉川まで玉電に乗って明大プ-ル(50M)当時の二子玉川遊園地の端に隣接しており、現在の楽天グル-プ本社の先あたりだったでしょうか?
地下水だったようでとても冷たかった。
両プ-ルは飛び込み用も兼ねていたので端の部分は水深5~6Mあり、明大プ-ルでは事故も起きていた。
碑文谷の日大プ-ル(50M)も一般開放されていたし、若林には松蔭プ-ルもありここは芋洗い状態でした。
それぞれ入場料は30円?ほどだったか。
親が海などに連れて行ってくれるのはせいぜい夏休みに一回、あとは近所の子供たちと日が暮れるまで遊び回った。
振り返るとあの頃の楽しさは人生一番だったのかもしれません。

星空
70年ほど昔は小学校低学年で昭和26~28年頃。
夜間はまだ街路灯も整備されておらず町全体がとても暗く、家々の明かりも一軒で60Wの電球が一部屋か二部屋ほど漏れてくる程度であとは門灯がポツンポツンと点いていた。
その分夜空は何等星まで見えたのか、後年見たプラネタリウムみたいな星の数で季節によっては星座がいくつも見られた、北斗七星も観察できたが天の川は記憶にはない。
この項を書くにあたり夜空をのぞいてみたら月以外は何もナシで、今このあたりで上向いて見えるのは太陽・月・あとは見えても火星・水星と金星くらいですか。
もしかして真冬の澄んだ夜空には一等星位は見えるかもしれませんが、星座観察は夏休みの研究テ-マにもなりませんね。

デパ-ト・映画館
気温は現在より最高気温で3~4度は低くもちろん熱帯夜とか真夏日・猛暑日なんて言葉もなく、午前中は10時班頃まで比較的涼しく夏休みの宿題もその頃までに。
しかし昔でも夏は夏で多湿な空気は今と変わらず蒸し暑く、主にうちわで凌いでいたし我が家にその頃扇風機はなかった。
喫茶店等にク-ラ-が普及し始めたのは昭和35年(1960年)過ぎだったでしょうか。
その頃まではデパ-トや映画館そして公共交通機関などすべて空調ナシでバスや電車は走行中は風が入りまだましで、最悪は真夏の映画館で汗かきには耐えられる場所ではありませんでした。
昔の映画館内は売り子がせんべいやのしイカを休憩時間に販売に回り、それを食べながらの映画鑑賞だった。
デパ-トにも空調はなかったけど窓からの空気の出入りもありそれなりの暑さで、入り口他数カ所大きな氷柱が設置され涼を感じたが子供中心に皆が触るため、開店時には大きな四角い氷柱が3時頃には丸くやせ細っていた。
確か氷の中心には季節の花が入っていた。

余談ですが社会人になり名店街等に出店している会社(せんべい・あられ)の担当になり月に数回訪問したが、工場では酷暑の中で生産活動をしているので隣の事務所内にも空調は設置しないとの社長の方針で室内はとても暑かった。
なぜか訪問するたび昼食時真夏含め通年、名物の鍋焼きうどんを近所の老舗そば店より出前いただき工場の熱風流れる事務所でご馳走になった。
とにかく暑くて、これは人生一番の強烈な夏の思い出です。

夏の生き物
子供の頃家には家に網戸はなく夏の夜にはテントウ虫・カミキリ虫・カナブン・コガネムシなどよく飛び込んできたし、外では蝉や蝶が何種類かトンボはシオカラトンボ・麦わらトンボ・赤とんぼはもちろん、ギンヤンマやオニヤンマも飛んでいたがこの二種は動きが速く捕らえることはできなかった。
外にはバッタ・クモ・カマキリそしてカエルやヤモリ・カナヘビなども最近まで見かけたが、ここ数年生態系や気候の変化でしょうか姿を見ない。
野鳥も小型の猛禽類含め何種類もいたし自由通りの世田谷区側にはコウモリのねぐらもあり蛇も見かけた。一昨年マンションの植え込みの中から半身を現した蛇(アオダイショウ)に出くわした時はビックリ!
世代交代繰り返しながら生き残っているのですね。
カラスは1964年駒沢公園ができてから木々の生長とともにドンドンと増えました。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

 

続きを読む
2022年5月12日

古老の書付け 十八話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十八話 テレビジョン 70年前頃から

最近ではメディアの多様化によりほとんどテレビを見ない方も増えているようですが、まだまだテレビは一番の媒体でしょう。
世界では19世紀末には、日本では昭和になってから研究が始まっていたようだが、1953年(昭和28年)に本放送が始まりました。もちろんモノクロ画像でNHK続いて日本テレビが放送を開始しました。
初期の頃は各局が自前の電波塔(高さ100メ-トルほどでNHKは内幸町・日テレは麹町・TBSは赤坂・フジテレビは河田町・テレビ朝日は材木町)を使用していたようだがそれではダメだったようで、1958年港区芝公園に東京タワ-が完成し順次各局がここから放送を開始した。

筆者この真下の中学に通学していたので起工から竣工まで毎日工事の進捗状況を見上げていたが、最初に四隅から出っ張りのような物がポチット出たのが始まりでその鉄骨が上に上にと伸び途中で合体しさらに上に、一年半ほどで完成しました。
333メ-トルと日本一の高さを誇っていたが50年ほど後にスカイツリ-に抜かれた時、東京タワ-への思い入れが強かった分幾ばくかのほろ苦さを感じました。
テレビ塔としての立地・品格・優美さ等、特に夜間はやっぱり東京タワ-が一番ですよ。

記憶では初期のテレビ局はテレビ東京(科学テレビ→12チャンネル)はもちろん、テレビ朝日(日本教育TV)も未だ開局していなかったし、番組も午後の一定時間は休止で一日中の放送ではなかった。
初期の番組としてはジェスチャ-・バス通り裏・てなもんや三度笠・事件記者・三匹の侍・シャボン玉ホリデイ等記憶にある。
カラ-受像器は1964年の東京オリンピック前にはだいぶ普及してきたが、それ以前は東京キ-局合計でも一日に数時間ほどで新聞の番組表にもカラ-放送には【カラ-】との表示があった。
1970年代に入るとすべての放送がカラ-になりました。

小学生の頃は我が家にテレビがなくプロレス・プロ野球等スポ-ツ番組の視聴は、
1.東根の同級生のお宅で(柿の木坂の同級生宅は受像器設置が早かった)
2.松竹の映画スタ-だった角梨枝子さんのお宅で(現東が丘11番館)
3.真中商店街の皆楽亭(ラ-メン店)や村礒さんという餅菓子店で
4.246と環7の上馬交差点の街頭テレビで
テレビが見たくて子供なりに苦労をした記憶がありラ-メン屋さんではもちろんラ-メンを食べることが条件で視聴ができ、当時ラ-メン40円だったが親はかけラ-メン(具ナシで麺だけ)の25円だけしか持たせてくれず、具ナシ麺を食べプロレスを見ていた。
特にお伝えしたいのは街頭テレビで受像器の大きさは小さく14~21インチ程でしたか。
それを群衆と呼べるほどの数で見るのだから、上馬交差点脇に設置された街頭テレビはプロレス中継時人々であふれかえっていた。
戦後の復興期でいくら娯楽が少ない時代にしても小学生から老人まで小さな同じ画面を見つめ熱狂していたのは今考えるとそれがその時代だったのか。
尚、試合は劣勢だった力道山が最後は空手チョップで大逆転必ず勝ちました。
いつものお話で正義?のヒ-ロ-は強かったですね。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

続きを読む
2022年3月28日

古老の書付け 十七話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十七話 国立東京第二病院 73年前頃から

大原町会の中で日々を過ごす気持ちの良さはは町内が安定した地盤上にある、そして家々も密ではないなどと環境面の安心感もありますが、それにもまして駒沢オリンピック公園と東京医療センタ-が所在する、さらに十中と東根小も町内に含むこともあるのでしょうか。
地震等原因で大火災が起きたとき火災がおさまるまで待つのが避難場所。
避難場所は駒沢オリンピック公園
災害で家屋の倒壊・火災などにより自宅での生活が困難な時に利用するのが避難所。
避難所は東根小学校と第十中学校
最近では倒壊や火災に遭わず自宅で生活が可能なときは、避難所を利用せず自宅でとの在宅避難が推奨されております。
そのためにも軽い傷の治療用品やお薬そして最低4~5日分の水と食料など、各ご家庭でのそれぞれご準備お奨めします。
そして災害拠点病院の東京医療センタ-、普段はお世話になっておりますが災害時は災害拠点病院に指定されており、治療は命を考慮した「助けられる命は全員助ける」選択になります。(トリア-ジ)

大原の中央、小字東梶屋敷あたりに海軍軍医大学校として1884年(明治17年)に設立され、その後1945年(昭和20年)に国立東京第二病院、1998年(平成10年)に国立病院機構東京医療センタ-と名称を変更しながら発展し現在では高度総合医療施設として又、災害時の拠点病院として地域医療の核になっています。
都内の陸軍・海軍の病院としては新宿区戸山に旧国立東京第一病院の東京国際医療研究センタ-(陸軍)、世田谷区大蔵に小児医療の国立成育医療研究センタ-(陸軍)、中央区築地に国立がん研究センタ-(海軍)等があるようです。
当敷地内には国立病院機構本部や東京医療保健大学も所在し、子供の頃第一病院の先生は東京大学医学部、第二病院の先生は慶応大学医学部と聞かされてましたが、現在もその流れは続いているようです。

国立東京第二病院で受診経験お持ちの方もだんだん少なくなりますね。
戦後の施設としては知っている限りでは現在の建物は三代目、最初の記憶の外来棟(二階建て)は自由通り「駒沢公園東口」から入って左側にあり入院棟は渡り廊下で結ばれた敷地内に点在しており、一番北側には結核専用病棟もありグランドや畑もあった時代で病棟は旧海軍病院そのままって感じ。
二代目はだいぶ南寄りに建築され多分1964年東京オリンピック前後だったと記憶していますが。
そしてもっと南に寄り現在の三代目が。
自身それぞれの時期に入院経験がありますが順調に回復しました、昔から名医がそろったレベルの高い医療施設と思います。

昭和35年頃までは戦争で負傷された傷病兵の方々も敷地内で生活しておられ、白衣に松葉杖や眼帯姿で玉電真中から電車に乗り渋谷ハチ公前などでアコ-デオンやハ-モニカを演奏してました、今で云うと投げ銭を得ていたのでしょう。
又、自由通りに面した公園駐車場の中に傷病兵のための義肢工場があり、型を取るためでしょうか石膏の手や足が並んでいたが昭和25年頃だったでしょうか、火災を起し炎と黒煙がすごかったのをが記憶にあります。
世の中何でもアリの時代だけれど戦争だけはご勘弁を願います。

東根小学校のすぐ脇には小型のプ-ルがありよどんだ水が入っており小道を隔てた場所に小屋があり子供たちは解剖室と呼んでいた。
噂ではプ-ルの中はホルマリン液で解剖した物体が漂っているとのことでしたが、筆者は怖くて近づけなかったがこれは下校時に近道である病院内を通過させないよう、父兄や学校が流した話かもしれません。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

続きを読む
2022年2月13日

古老の書付け  十六話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十六話 大原の地名・地形 明治・大正期~

先日大原の由来についての質問をいただきましたが、即答できませんでした。
おそらく明治時代まではこの台地は駒沢公園含め、畑と残りは原野と少々の田んぼだったのでしょう。
古い文章には東大原並びゴルフ場造成前のこの周辺は、昼間の通行も気持ちの悪いうっそうとした雑木林でであったと。
当時の地図には単純に何もない野原で地図に東大原との記載があるのは昭和になってからで、それが大原に変ったのでしょう、隣の芳窪なる地名は明治期中程の地図にはすでに記載があり、地名としての芳窪は相当古くから所在していたようです。
別の説ではチョットこじつけですが目黒パ-シモンホ-ルあたりを昔小字、原と呼んだがこちらのほうが広いので大原と。
江戸・明治時代から伝わる歴史や文化を感じさせるものはこの地では皆無でしょう。
だからしがらみの少ないサッパリとした地域に育ったと思います。

目黒区は都心に近い方面から発展を始め、都立大学付近までは町並み形成が早かったようですがこの台地までは時間がかかったようで、昔は一定の規模以上の地域にあった寺や神社も都立大まで。
昭和初年発行の碑衾村村誌にも当地のことを、玉電の音が遠くに聞こえる未開の地との記述がある。
この地域の小字には地域の総称が東根だったこともあるのか東大原・東梶屋敷・東池渕・東芳窪・東曽根・東水窪などほとんど東がつく。
目黒区のこちら半分・東京府荏原郡碑衾村(ひぶすまむら)全体から見たら北西なのに。
地形は東に柿の木坂支流・西に駒沢支流と碑文谷呑川が流れその間の台地が大原で基本、水田には適さず畑地と原野だったようです。

この周辺には駒沢村・野沢村・上馬村(上馬引沢村)・下馬村(下馬引沢村)深沢村・奥沢村など沢ばかりの地名で小流のある谷に囲まれた土地だったのでしょう。
70年ほど前でも、医療センタ-と駒沢公園部分を除いても十中の先まで半分くらいは畑と原っぱだったし、隣の芳窪町は畑と空き地だらけで人家は芝道沿い(サミット野沢店裏手あたり)に偏っていた。
畑ばかりの当地だが自由通り沿いの駒沢大学駅から見て右手の世田谷区側は、ずっと田んぼで、駒沢公園内の自由広場あたりまで電通グランドを含み、世田谷の中村家が所有する谷地田や畑が続いたが、田は泥深く収穫量はあまりよくなかったらしい。
現ミニストップ隣は谷頭の湧水池で、自由通り沿いには小さな洗い場もあったそうです。
尚、当時は自由通りはなくあぜ道程度の道とのことです。
昭和25年頃の薄い記憶では病院と公園を除いても町内の30~40%は畑や空き地で、
戦後の食糧難もあり東根公園は全面・医療センタ-の敷地内にも麦畑がありました。
区道もほとんどが未舗装で太陽教育スポ-ツから下っていく区道は途中が畑で途切れていた。
又、碑文谷警察署東が丘駐在所は筆者の知らない古くからあり、小野さんとおっしゃる子供にはとても恐ろしい巡査が勤務されてました。

親に聞いた話ですが昭和27・8年頃は諸条件により違いはあるでしょうが、一坪あたり初任月給程度(10,000円位)でこのあたりの土地が売買されていたようです。今では初任年収ですか。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

続きを読む
2022年1月8日

古老の書付け  十五話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十五話 自由通り・駒沢通り路線バスとバスガール 60年ほど前

明けましておめでとうございます、本年もよろしくお願い致します。
日本史の上では明治維新から太平洋戦争敗戦までが近代、敗戦から現在までが現代とされているようで、今年は近代が77年間そして現代になり77年目になるそうです。
毎話近代生まれの昔話ばかりで恐縮ですがご辛抱願います。

ところでバスガ-ルさんとバスガイドさんとは違いますよ。
バスガ-ルさんはかって存在した女性の職業で、路線バスに乗務をしていた車掌さんのことです。
今、このあたりのバスは車両前方のドアが開き現金とかカ-ドで乗車し、ブザ-を押し中程の扉が開きそこから降車します。
でも昭和39年東京オリンピック(1964年)ちょっとあとまでは路線バスは車両中程に乗降口があり、乗務員も運転手と車掌の二名乗務で車掌さんは女性でした。
しかし1970年代には運転手だけのワンマンバスになり、車掌さんも路線バスから姿を消しました。
主な業務は乗降口の開閉(もちろん手動)、行き先や次の停留場の案内と乗降客の確認、バック時の誘導や車内でのキップ販売、入鋏等でした。
当時近所の若者には田園調布⇆渋谷路線には美人車掌が多いと評判で、その中でも特に○野○子さんは最上位ランクで、彼女の勤務シフトを研究していたお馬鹿さんもいた。
でも筆者だけは知っていました群馬県出身で大岡山駅そばの東急社員寮に住んでいたことを、彼女は幸せな人生を送っているでしょうね、昔のバスはよかったな。
大多数の方がそんな歌知らないと云う昭和30年過ぎに流行った初代コロンビアロ-ズの「東京のバスガ-ル」はバスガ-ルを歌ったものでバスガイドのことではありません。

昭和20年代後半には自由通り・駒沢通り・もちろん玉川通りにも路線バスが運行されておりました。
自由通りを走る田園調布⇆渋谷間の路線は昭和30年頃にはすでにあったと思う、このル-トは東急バスの主要路線のようで現在でも大型で新しい車両が投入され運行本数も多い。
駒沢通りにはこちら方面では今は全く見なくなった都バスも走っており、確か桜新町に折り返しスペ-スがありそこから真中、国立第二病院で右左折し駒沢通りに入り恵比寿→天現寺等を経由し東京駅丸の内口が終点でした。同ル-トでで桜新町⇆恵比寿間の路線も記憶があります。
玉川通りには等々力起点で駒沢を右折して玉川通りに入り渋谷→六本木右折→虎ノ門経由で東京駅八重洲口までの路線もあり、両路線とも相当な長距離路線だった。
他にも玉川通りには多数の路線がありました。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください

続きを読む
2021年11月28日

古老の書付け  十四話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十四話 碑文谷呑川駒沢支流とそのまた支流 70年ほど昔

四話で柿の木坂支流のことを書いてみましたがここは駒沢支流。
大原の台地の西側を流れ八雲2丁目で深沢からの本流に合流します。
書くにあたってネットで暗渠化された時期など考証しましたが、暗渠や支流に関するハンタ-そしてブロガ-の皆様が大勢おられるのにびっくり。
でも駒沢支流・柿の木坂支流の上流部分についてはハンタ-の皆様も迷子になっているようです。
目に見える暗渠部分については正解ですが昭和25、6年ごろのその先についてを少々。
下流からさかのぼり緑道部分は自由通りまでで、40年以上前に暗渠化されました。
そこから深沢ハウスと華屋与兵衛の間の道~軟式野球場~駒沢通り~陸上競技場中央部~電通グランド外野の際(八星苑)~駒澤大学裏~蜂の家本社工場裏~246を渡り少し行ったところに風呂屋がありその排水も流れてきていた。
その先記憶がないがすぐ品川用水に突き当たるので、その昔は用水から多少の落水でもあったのでしょうか。
水質は柿の木坂支流と同じで褒められたものではなかった。
246から入ったところ、サナイ(眞井)マンション脇に行き止まりの道があるがこれが流れの跡で、たぶんマンションは土地の地主眞井家経営の「長寿庵?」名の旅館だったと思う。
この付近の川筋を写真でど-ぞ。

特に書きたいのは駒沢支流にそのまた支流があったこと、これは七話の②邸南端よりの湧水で今の駒沢ガ-デンハウス自由通り際からの流れで川幅50センチほどでほぼあだち内科脇の区道の位置を流れ、階段のある駒沢公園入口「東が丘2丁目15番地口」あたりで駒沢支流に流れ込んでいた。
ここに入るには自由通りにある木戸を開け(セブンイレブン向かいあたり)あぜ道のような流れの土手を歩いたが、流量は少ないがきれいで小魚(クチボソ?メダカ?)もいた。
流れの右側の電通グランドに面した部分は、旧水田でザリガニなども多く他地域の子供たちがあまり入り込まない秘密基地だった。
その昔はその先ミニストップ横にあった矢頭池も湧水だったそうでこれも水源だったかもしれない。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

続きを読む