「古老の書付け」カテゴリーの記事一覧

2022年3月28日

古老の書付け 十七話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域や当時の世相等)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十七話 国立東京第二病院 73年前頃から

大原町会の中で日々を過ごす気持ちの良さはは町内が安定した地盤上にある、そして家々も密ではないなどと環境面の安心感もありますが、それにもまして駒沢オリンピック公園と東京医療センタ-が所在する、さらに十中と東根小も町内に含むこともあるのでしょうか。
地震等原因で大火災が起きたとき火災がおさまるまで待つのが避難場所。
避難場所は駒沢オリンピック公園
災害で家屋の倒壊・火災などにより自宅での生活が困難な時に利用するのが避難所。
避難所は東根小学校と第十中学校
最近では倒壊や火災に遭わず自宅で生活が可能なときは、避難所を利用せず自宅でとの在宅避難が推奨されております。
そのためにも軽い傷の治療用品やお薬そして最低4~5日分の水と食料など、各ご家庭でのそれぞれご準備お奨めします。
そして災害拠点病院の東京医療センタ-、普段はお世話になっておりますが災害時は災害拠点病院に指定されており、治療は命を考慮した「助けられる命は全員助ける」選択になります。(トリア-ジ)

大原の中央、小字東梶屋敷あたりに海軍軍医大学校として1884年(明治17年)に設立され、その後1945年(昭和20年)に国立東京第二病院、1998年(平成10年)に国立病院機構東京医療センタ-と名称を変更しながら発展し現在では高度総合医療施設として又、災害時の拠点病院として地域医療の核になっています。
都内の陸軍・海軍の病院としては新宿区戸山に旧国立東京第一病院の東京国際医療研究センタ-(陸軍)、世田谷区大蔵に小児医療の国立成育医療研究センタ-(陸軍)、中央区築地に国立がん研究センタ-(海軍)等があるようです。
当敷地内には国立病院機構本部や東京医療保健大学も所在し、子供の頃第一病院の先生は東京大学医学部、第二病院の先生は慶応大学医学部と聞かされてましたが、現在もその流れは続いているようです。

国立東京第二病院で受診経験お持ちの方もだんだん少なくなりますね。
戦後の施設としては知っている限りでは現在の建物は三代目、最初の記憶の外来棟(二階建て)は自由通り「駒沢公園東口」から入って左側にあり入院棟は渡り廊下で結ばれた敷地内に点在しており、一番北側には結核専用病棟もありグランドや畑もあった時代で病棟は旧海軍病院そのままって感じ。
二代目はだいぶ南寄りに建築され多分1964年東京オリンピック前後だったと記憶していますが。
そしてもっと南に寄り現在の三代目が。
自身それぞれの時期に入院経験がありますが順調に回復しました、昔から名医がそろったレベルの高い医療施設と思います。

昭和35年頃までは戦争で負傷された傷病兵の方々も敷地内で生活しておられ、白衣に松葉杖や眼帯姿で玉電真中から電車に乗り渋谷ハチ公前などでアコ-デオンやハ-モニカを演奏してました、今で云うと投げ銭を得ていたのでしょう。
又、自由通りに面した公園駐車場の中に傷病兵のための義肢工場があり、型を取るためでしょうか石膏の手や足が並んでいたが昭和25年頃だったでしょうか、火災を起し炎と黒煙がすごかったのをが記憶にあります。
世の中何でもアリの時代だけれど戦争だけはご勘弁を願います。

東根小学校のすぐ脇には小型のプ-ルがありよどんだ水が入っており小道を隔てた場所に小屋があり子供たちは解剖室と呼んでいた。
噂ではプ-ルの中はホルマリン液で解剖した物体が漂っているとのことでしたが、筆者は怖くて近づけなかったがこれは下校時に近道である病院内を通過させないよう、父兄や学校が流した話かもしれません。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください
古老故の記憶違いやダブりなども同様に願います。

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2022年2月13日

古老の書付け  十六話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十六話 大原の地名・地形 明治・大正期~

先日大原の由来についての質問をいただきましたが、即答できませんでした。
おそらく明治時代まではこの台地は駒沢公園含め、畑と残りは原野と少々の田んぼだったのでしょう。
古い文章には東大原並びゴルフ場造成前のこの周辺は、昼間の通行も気持ちの悪いうっそうとした雑木林でであったと。
当時の地図には単純に何もない野原で地図に東大原との記載があるのは昭和になってからで、それが大原に変ったのでしょう、隣の芳窪なる地名は明治期中程の地図にはすでに記載があり、地名としての芳窪は相当古くから所在していたようです。
別の説ではチョットこじつけですが目黒パ-シモンホ-ルあたりを昔小字、原と呼んだがこちらのほうが広いので大原と。
江戸・明治時代から伝わる歴史や文化を感じさせるものはこの地では皆無でしょう。
だからしがらみの少ないサッパリとした地域に育ったと思います。

目黒区は都心に近い方面から発展を始め、都立大学付近までは町並み形成が早かったようですがこの台地までは時間がかかったようで、昔は一定の規模以上の地域にあった寺や神社も都立大まで。
昭和初年発行の碑衾村村誌にも当地のことを、玉電の音が遠くに聞こえる未開の地との記述がある。
この地域の小字には地域の総称が東根だったこともあるのか東大原・東梶屋敷・東池渕・東芳窪・東曽根・東水窪などほとんど東がつく。
目黒区のこちら半分・東京府荏原郡碑衾村(ひぶすまむら)全体から見たら北西なのに。
地形は東に柿の木坂支流・西に駒沢支流と碑文谷呑川が流れその間の台地が大原で基本、水田には適さず畑地と原野だったようです。

この周辺には駒沢村・野沢村・上馬村(上馬引沢村)・下馬村(下馬引沢村)深沢村・奥沢村など沢ばかりの地名で小流のある谷に囲まれた土地だったのでしょう。
70年ほど前でも、医療センタ-と駒沢公園部分を除いても十中の先まで半分くらいは畑と原っぱだったし、隣の芳窪町は畑と空き地だらけで人家は芝道沿い(サミット野沢店裏手あたり)に偏っていた。
畑ばかりの当地だが自由通り沿いの駒沢大学駅から見て右手の世田谷区側は、ずっと田んぼで、駒沢公園内の自由広場あたりまで電通グランドを含み、世田谷の中村家が所有する谷地田や畑が続いたが、田は泥深く収穫量はあまりよくなかったらしい。
現ミニストップ隣は谷頭の湧水池で、自由通り沿いには小さな洗い場もあったそうです。
尚、当時は自由通りはなくあぜ道程度の道とのことです。
昭和25年頃の薄い記憶では病院と公園を除いても町内の30~40%は畑や空き地で、
戦後の食糧難もあり東根公園は全面・医療センタ-の敷地内にも麦畑がありました。
区道もほとんどが未舗装で太陽教育スポ-ツから下っていく区道は途中が畑で途切れていた。
又、碑文谷警察署東が丘駐在所は筆者の知らない古くからあり、小野さんとおっしゃる子供にはとても恐ろしい巡査が勤務されてました。

親に聞いた話ですが昭和27・8年頃は諸条件により違いはあるでしょうが、一坪あたり初任月給程度(10,000円位)でこのあたりの土地が売買されていたようです。今では初任年収ですか。

資料は先人の残したものやネットからも、間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

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2022年1月8日

古老の書付け  十五話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十五話 自由通り・駒沢通り路線バスとバスガール 60年ほど前

明けましておめでとうございます、本年もよろしくお願い致します。
日本史の上では明治維新から太平洋戦争敗戦までが近代、敗戦から現在までが現代とされているようで、今年は近代が77年間そして現代になり77年目になるそうです。
毎話近代生まれの昔話ばかりで恐縮ですがご辛抱願います。

ところでバスガ-ルさんとバスガイドさんとは違いますよ。
バスガ-ルさんはかって存在した女性の職業で、路線バスに乗務をしていた車掌さんのことです。
今、このあたりのバスは車両前方のドアが開き現金とかカ-ドで乗車し、ブザ-を押し中程の扉が開きそこから降車します。
でも昭和39年東京オリンピック(1964年)ちょっとあとまでは路線バスは車両中程に乗降口があり、乗務員も運転手と車掌の二名乗務で車掌さんは女性でした。
しかし1970年代には運転手だけのワンマンバスになり、車掌さんも路線バスから姿を消しました。
主な業務は乗降口の開閉(もちろん手動)、行き先や次の停留場の案内と乗降客の確認、バック時の誘導や車内でのキップ販売、入鋏等でした。
当時近所の若者には田園調布⇆渋谷路線には美人車掌が多いと評判で、その中でも特に○野○子さんは最上位ランクで、彼女の勤務シフトを研究していたお馬鹿さんもいた。
でも筆者だけは知っていました群馬県出身で大岡山駅そばの東急社員寮に住んでいたことを、彼女は幸せな人生を送っているでしょうね、昔のバスはよかったな。
大多数の方がそんな歌知らないと云う昭和30年過ぎに流行った初代コロンビアロ-ズの「東京のバスガ-ル」はバスガ-ルを歌ったものでバスガイドのことではありません。

昭和20年代後半には自由通り・駒沢通り・もちろん玉川通りにも路線バスが運行されておりました。
自由通りを走る田園調布⇆渋谷間の路線は昭和30年頃にはすでにあったと思う、このル-トは東急バスの主要路線のようで現在でも大型で新しい車両が投入され運行本数も多い。
駒沢通りにはこちら方面では今は全く見なくなった都バスも走っており、確か桜新町に折り返しスペ-スがありそこから真中、国立第二病院で右左折し駒沢通りに入り恵比寿→天現寺等を経由し東京駅丸の内口が終点でした。同ル-トでで桜新町⇆恵比寿間の路線も記憶があります。
玉川通りには等々力起点で駒沢を右折して玉川通りに入り渋谷→六本木右折→虎ノ門経由で東京駅八重洲口までの路線もあり、両路線とも相当な長距離路線だった。
他にも玉川通りには多数の路線がありました。

資料は先人の残したものやネットからも。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください

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2021年11月28日

古老の書付け  十四話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十四話 碑文谷呑川駒沢支流とそのまた支流 70年ほど昔

四話で柿の木坂支流のことを書いてみましたがここは駒沢支流。
大原の台地の西側を流れ八雲2丁目で深沢からの本流に合流します。
書くにあたってネットで暗渠化された時期など考証しましたが、暗渠や支流に関するハンタ-そしてブロガ-の皆様が大勢おられるのにびっくり。
でも駒沢支流・柿の木坂支流の上流部分についてはハンタ-の皆様も迷子になっているようです。
目に見える暗渠部分については正解ですが昭和25、6年ごろのその先についてを少々。
下流からさかのぼり緑道部分は自由通りまでで、40年以上前に暗渠化されました。
そこから深沢ハウスと華屋与兵衛の間の道~軟式野球場~駒沢通り~陸上競技場中央部~電通グランド外野の際(八星苑)~駒澤大学裏~蜂の家本社工場裏~246を渡り少し行ったところに風呂屋がありその排水も流れてきていた。
その先記憶がないがすぐ品川用水に突き当たるので、その昔は用水から多少の落水でもあったのでしょうか。
水質は柿の木坂支流と同じで褒められたものではなかった。
246から入ったところ、サナイ(眞井)マンション脇に行き止まりの道があるがこれが流れの跡で、たぶんマンションは土地の地主眞井家経営の「長寿庵?」名の旅館だったと思う。
この付近の川筋を写真でど-ぞ。

特に書きたいのは駒沢支流にそのまた支流があったこと、これは七話の②邸南端よりの湧水で今の駒沢ガ-デンハウス自由通り際からの流れで川幅50センチほどでほぼあだち内科脇の区道の位置を流れ、階段のある駒沢公園入口「東が丘2丁目15番地口」あたりで駒沢支流に流れ込んでいた。
ここに入るには自由通りにある木戸を開け(セブンイレブン向かいあたり)あぜ道のような流れの土手を歩いたが、流量は少ないがきれいで小魚(クチボソ?メダカ?)もいた。
流れの右側の電通グランドに面した部分は、旧水田でザリガニなども多く他地域の子供たちがあまり入り込まない秘密基地だった。
その昔はその先ミニストップ横にあった矢頭池も湧水だったそうでこれも水源だったかもしれない。

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2021年10月30日

古老の書付け  十三話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十三話 玉川電車(玉電)と真中停留場 其ノ弐  70年前~

真中ってご存じですか?
そうです、246と自由通りの交差点にあったのが玉電の真中停留場で、大原の住人の皆様がここから渋谷や都心方面に出るのに利用していました。
地名(住居表示ではない停留場周辺の総称)も交差点名も真中だったんですが、今はほとんど通用せずタクシードライバーさんに「真中までお願いします」「は~?」です。
ですが12、3年ぐらい前までは246交差点の表示板は駒沢大学駅前でなく【真中】だったんです。


今ではだいぶ遠くまで〇〇〇駒沢大学店とか△△△マンション駒澤大学と呼称していて真中と付くお店や集合住宅はアッという間に無くなりなりました。
今では東が丘二丁目でも駒澤大学名の新築建物がチラホラ、八雲五丁目も浸食されるかもしれません。
駅名の底力でしょうか、真中が付いていたらお客さんも入居者もいなくなくなりますね、オシャレさも感じませんよね。
それだけに【マルエツ真中店】は貴重です。しかし洋服の青山からユニクロまでの再開発で、マルエツさんも新しくなって営業始めたら真中店を名乗るのかな。
マルエツ真中店の契約はあと一年と少しほどだそうです。
246のEssoガソリンスタンドもまだ【真中SS】で、他に真中ビルが一棟現存してます。真中荘とか真中アパ-トの表札をだいぶ前に2,3見かけたことあるけど、もう真中は絶滅危惧種です。

そもそも真中と停留場名をつけたのは
①渋谷と二子玉川の中ほどだから。
②停留場付近の土地はほとんどが眞井(さない)家と中村家の土地で眞井と中村から真中。
いろいろ説があるようだが確定した説はないようです。
三菱UFJ銀行ができる前は八百半という眞井さんが営む八百屋さんだったし、中村家は確か松之木質店を営んでいた大地主さんで現在もあちこちに中村駐車場や松之木名のマンションなど見かけるし、芝道の駒沢寄りに開放されてる松之木都市林は中村家の庭。
70年前の停留場周辺には真中真栄会という商店街があり日用品は何でもそろったが、当時商店会長だった下駄屋さん(靴は扱っておらず下駄と草履だけ)そして鍛治屋さんもあり、お父さんと息子さんで炉とふいごを使い作業してました。
親子でトンチンカン・トンチンカンとたぶん近郷農家の鋤・鎌・鍬など、もっと前には大山道を行く馬の蹄鉄など製作していた農鍛治だったんでしょう。
でも昭和30年前には下駄屋さんも鍛治屋さんも時代の流れでなくなりました。
真中で今から70年前から続いているお店は、桝屋酒店・安達豆腐店・場所は変わったがフクシマ理髪店などですか。
桝屋は店の端に立ち飲みスペ-スがあり仕事帰りのお父さんたちが乾き物で一杯やっていたし、他二軒あった酒屋も同様に夕方は賑わっていた。 小学校入学前後の薄い記憶の中には駒沢大学駅(きらぼし銀行)のところには真中××館名の映画館があったが出火で全焼し、その後焼け跡ではサ-カスや浪曲の興行なども行われていた。(72~73年前の話です)
映画館は三軒茶屋には4・5軒、上馬にもありました。

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2021年10月10日

古老の書付け  十二話

筆者の子どもころの記憶など(町内と隣接地域)を思いつくままに書いているので時代は前後しますが、主に72年~62年前位(昭和24年~34年)のことです。


十二話 玉川電車(玉電)と真中停留場 其ノ壱  70年前~

皆様の中で玉電に乗車経験のある方はどのくらいおられるのでしょうか。
1907年(M40)開業1969年(S44)の廃線なので今から52年前、長く当地にお住まいの方でも玉電をご存じの方おおよそ60歳以上ですね。
そして新玉川線として開通したのが1977年(S52)、その間代替バス輸送で専用レ-ンができ特急やノンストップを含む多数のバス路線ができてはいたが、道路混雑がひどい時代で渋谷まで時間帯によっては40~50分はかかったと記憶している。
その後田園都市線と呼称が変わったが新玉川線開通が待ち遠しい年月でした。
その玉電ですがなにせ都電と同じ路面電車、車と道路共用なのでそれ以前も時間がかかり東横線を利用する地域の方がうらやましかった。
でも小学生のころ午後から雨になった日など、会社勤めの父親を真中の停留場まで迎えに行かされたが大体想定された時間に帰ってきた。
父親のきまじめさもあるけど運行もそれなりにされていたようだ。
ちなみに筆者の子供のころは車も少なく渋谷までの246の信号は三軒茶屋と上通り2か所だけ、大橋はどうだったかな。
三軒茶屋・下高井戸間は専用軌道でそのまま残り今はおしゃれな車両が走ってますね。
又、二子玉川・砧間を砧線が走っていて確か途中2・3駅(吉沢・中耕地・?・砧)ほどでコヤマドライビングスクール先、駒澤大学玉川キャンパスそばの河原脇が終点砧駅で、砂利採取跡の沼で鮒が釣れた。
玉電は明治末に多摩川の砂利採取・運搬を目的に敷設されたそうで、変遷はあったようだが筆者の子供の頃の停留場は渋谷・上通り・大坂上?・大橋・池尻・三宿・三軒茶屋・中里・上馬・真中(まなか)・駒沢・新町・桜新町・用賀・瀬田・二子玉川で駒沢から少し先は246の新道はなく、今の旧道を走っておりその中で屋根のある少しだけ駅っぽいのは渋谷を除き中里・駒沢・用賀?ぐらいで、他は道路の中央にコンクリ-トで島を作ったような乗客にはとても危険な乗降場所だった。(真中停留場の写真参照)
新町駅などその安全地帯もなく乗客は道ばたで待ち、電車がくると車の流れを横切って乗降していた。
下高井戸方面行の今の世田谷線は簡単であるが駅があり駅名も昔の儘で、三軒茶屋でポイント交換して渋谷からの電車の3本に1本ほどは下高井戸行に向い、行き先プレ-トは二子玉川行きが白地・下高井戸行きが赤地。基本は路面電車だが渋谷~上通り間他、数か所専用軌道の部分もありました。
渋谷駅は山手線・東横線・井の頭線と同じ2階で地下鉄は3階。
運賃は曖昧な記憶だが10円か15円で往復できたような気がするし、三軒茶屋乗り換えで下高井戸まで同一切符で行けた。(都電も同じような仕組で乗り換えあり)
筆者1956年(昭和31年)中学入学時、山手線渋谷→浜松町間大人運賃が10円で(現在は200円)、渋谷東急文化会館(現渋谷ヒカリエ)が開業しニュ-ス専門上映館(東急ジャ-ナル)が有りここも10円で当時の10円って存在感ありました。
玉電の車両は写真と同じで廃止前何年かは不二家のペコちゃん型のちょっとかわいいのも走っていて、後年は2両連結が多く乗車は前・後ろの2か所で乗降を車掌さんが確認すると2回紐を引く、運転席でチンチンと2回鳴り発車する、手動人間には懐かしい音だな。 車庫は大橋で現在の首都高大橋ジャンクション・天空庭園のあるところ。 町内の住人が皆利用した不便な真中停留場、でも今では「渋谷ハチ公に集合!」って号令かかったら、大原の住人が目黒区民の中でも何番目かにハチ公の足つかめますよ。
なにせ渋谷までの乗車時間6分、いろいろあったようだが駒沢や上馬でなく駒澤大学駅が真中にできてよかった。

*この連載にたびたび記述の【駒澤】とは246と駒沢公園通りの交差点。
【真中】とは246と自由通りの交差する駒澤大学駅前交差点のことです。
*玉電真中停留場は現在の駒沢大学駅で路面電車の玉電や都電の駅は停留場(所)と呼んだ。
246(玉川通り)は厚木街道のことで昔は大山道と呼び、三軒茶屋や用賀に道しるべがあったが今はどうなんでしょうか?
大山道は江戸庶民に大人気の大山詣でに使われた道。

資料は先人の残したものやネットから。間違いあったらご指摘そしてご容赦ください。

前回十一話の集合写真の答え、最前列右から4人目が今井会長です。

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